2012-01-01から1年間の記事一覧

鄭陳桃の証言

四 原告 鄭陳桃 1 連行まで 原告鄭は、一九二二年一一月一四日台北市で生れる。母親は原告鄭が三歳のときに亡くなり、父親が再婚したが同人も原告鄭が七歳のときに死亡した。以後継母と叔父に育てられる。中学(高等課)にすすんだが、戦争の為これを中退し…

黄阿桃の証言

三 原告 黄阿桃 1 連行まで 原告黄は、一九二三年二月六日台湾省桃園県の観音郷で生まれる。家は貧しく生後すぐに他家に養子にだされるが、七歳か八歳のころ両親が再び引き取り、家で炊事・洗濯や弟妹の面倒をみて暮らす。学校にはいけず、読み書きは出来な…

盧滿妹の証言

二 原告 盧滿妹 1 それまでの生活 原告廬は一九二六年(大正一五年)九月二九日に新竹県湖口郷の出身父盧慶彬、母盧羅六妹の間に出生し三歳の時に父のいとこの家に養女として売られ養父盧金火、養母盧荘茶妹に育てられた。実親養親とも他家の茶摘みをしなが…

高寶珠の証言

一 原告 高寶珠 1 招集される前の生活 一九二一年九月一七日に台湾省台北県淡水鎮で生まれ三歳の時に父が、一五歳の時に母が亡くなっている。そのため、原告高は幼い頃から母の洗濯や裁縫の仕事を手伝っていたので学校にはいっていない。一五歳のころから江…

金田君子の証言

父のこと 私が14歳の時父が神社参拝をしないからと警察に連行された。私は弟たちの世話とか、家の手伝い掃除をしなければならないので、学校に行きたいという考えも余裕もなかった。 14歳の時父が日本の高等警察に連れていかれた。父は日本語が上手だったの…

第68軍

編成の経緯 1938年4月 徐州会戦 1938年7月 武漢攻防戦 1939年5月 随棗会戦(襄東会戦) 1940年4月 棗宜会戦 1941年1月 豫南会戦 1945年3月 豫西鄂北会戦 編成時の軍長は劉汝明、後に弟の劉汝珍が就任(劉汝明は第68軍を麾下に持つ第2集団軍総司令に就任)

豫南会戦の中国軍編成

第五戦区司令長官・李宗仁第36軍 独立第15旅 砲兵第14団 独立工兵第4営 戦車防御砲第56団 第1、第4連 第2集団軍・孫連仲 第55軍 第59軍 第68軍 第33集団軍・馮治安 第77軍 第30軍 第31集団軍・湯恩伯 第92軍 第85軍 第29軍 第13軍 第84軍 関連 予南作戦 - Wi…

ジャワ・第16軍政監部布告第一号

「大東亜戦争とインドネシア -日本の軍政-」、加藤裕、朱鳥社、2002 軍政施行に関する件 1942年3月7日 第一条 大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し現地住民との共同共存を確保せんことを期し差当り東印度の…

石兵団会報 第54号・1944年9月14日

第62師団 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110065200、第62師団会報綴 (独立連射砲第22大隊受領)(防衛省防衛研究所)」 第五四号 石兵団会報 九月十四日一八〇〇 仲間 一、現職検事ノモノノ有無ヲ調査ノ上十六日正午迄ニ報告ノコト 二、外出ニ関…

軍慰安所従事者ニ対スル身分証明書発給ノ件・1940年6月1日

昭和15 一五三四二 略 台北 六月一日後発 本省 一日夜着 有田外務大臣 千葉台湾外事部長第一〇九号開館シ居ラサル領事館管轄区域タル前線ニ赴キ軍慰安所ニ従事スル者ニ対シテハ渡支事由証明書ノ取付ハ事実上不可能ナルヲ以テ陸海軍側ノ証明書ニ依身分証明書…

「日本人捕虜尋問報告 第四九号」ビルマ、1944年10月1日

アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属 アメリカ戦時情報局心理作戦班 APO六八九 秘 日本人捕虜尋問報告 第四九号尋問場所 レド捕虜収容所 尋問期間 一九四四年八月二○日〜九月一○日 報告年月日 一九四四年一○月一日 報告者 T/3 アレックス・ヨリチ捕…

関連記事

2002年6月26日(水)「しんぶん赤旗」 元「慰安婦」へ補償を 参院議長らに法案成立要請 - 韓国、台湾の元「従軍慰安婦」らは二十五日、国会内で参院の倉田寛之議長、本岡昭次副議長と会い、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の早期審議と…

東京初空襲・浙かん作戦

1942年4月18日、米空母ホーネットから発艦した陸上爆撃機B-25ミッチェル16機が日本本土を初空襲した。ドーリトル空襲である。B-25は爆撃後、空母に帰還することなくそのままソ連・中国へと飛び去った。日本海軍はこの空襲を機にミッドウェイ攻略作戦を発動し…

真珠湾攻撃

1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾を奇襲攻撃。停泊中のアメリカ太平洋艦隊に対して甚大な被害を与えた。アメリカ政府は直ちに対日宣戦布告を宣言し、太平洋戦争が勃発する。日本側からの宣戦布告の通告は様々な誤謬により攻撃…

1927年、井崗山入り直前の毛沢東

*1 永新県の西方で井崗山から二八キロの三湾という峠に集結した軍は、激戦の損害で残り少なになったので、整理改編を行わねばならぬ。旅団長がかぞえると、一旅団を一連隊にするにも足りないので、ついにニ大隊にすることにしようという、まことに心細い訓辞…

第一戦区の概略

1937年8月 河北省、山東省の日本軍に占領されていない地域を主要な戦区範囲として成立。戦区司令長官には当初、蒋介石が兼務したが第二次上海事変が激化すると蒋介石は第二次上海事変に専念せざるを得ず、戦区司令長官を程潜*1に交代する。 戦区麾下には、宋…

日本報道に見る1939年7月頃の蒙疆の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (6・完) 蒙疆篇 赤魔へ生ける長城 鉄、石炭無尽の豊庫 一昨年八月十二日皇軍が南口攻撃を開始し、忽ち察哈爾、山西、綏遠方面の敵…

日本報道に見る1939年7月頃の山西省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (5) 山西篇 黒煙吐く四十工場 軍管理した・活溌な生産 事変第三年に入っての第一の贈りものは山西省の復興であろう、かつては敵の…

日本報道に見る1939年7月頃の山東省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (4) 山東篇 鉱産富源開発へ 邦人企業の進出著し 最近英国筋のあるデマ放送はこう伝えた 山東の治安成れりというも、僅かに鉄道沿線…

中原会戦(百号作戦)・晋南(中条山)会戦関連資料

昭和16年(1941年)5月7日、北支那方面軍は、山西省の重慶国民政府軍を攻撃する、中原会戦(百号作戦)を開始しました。 資料1は、北支那方面軍の田辺盛武参謀長が木村兵太郎陸軍次官に対して送った、百号作戦に関連する昭和16年6月4日付の通牒…

日本報道に見る1939年7月頃の河南省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (3) 河南篇 民衆、大地に蘇る 農産既に事変前突破へ 北支五省の南端河南省は、省の一半予南、予西の各地区に国共敗残軍の蟠踞を見…

日本報道に見る1939年7月頃の河北省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (2) 河北篇 驚異的な治安回復 豊富な土産、開発進む 「北支の建設は河北省から……」これは北支の建設を語る一般の常識だ事変第三年…

日本報道に見る1939年7月頃の北京・天津の状況

新聞記事文庫 中国(18-071) 大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6) - 北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6) - (1) 京津篇 快調の経済建設 正規軍も年内に創設 事変は今や第三年に入った、過去二ケ年にわたる北支蒙疆建設の道程を回顧すれば、…

中条山会戦における八路軍・陳賡(陈赓)の行動

5月19日 奉命率部向洪洞北侧同蒲铁路侧击,以配合晋南友军作战。 http://baike.baidu.com/view/1825.htm

百団大戦

日本軍は1940年、次々と華北に増兵し、各抗日根拠地を立て続けに掃蕩した。日本軍は、「治安粛正」計画の推進に力を入れ、華北の抗日根拠地を徹底的に粉砕し、占領地域を固めようとした。こうした情勢の下に、八路軍本部は、晋察冀軍区、晋綏軍区、晋冀魯豫…

平型関の戦闘

日本軍は北平、天津を占領したのち、華北地区への大規模進攻を意図した。1937年9月、日本軍第5師団は山西省の渾源、霊丘に向けて進攻し、平型関・茹越口の要衝を突破しようとした。八路軍第115師団は、山西省東北の抗日前線に転戦せよとの命令を受け、林彪、…