2010-01-01から1年間の記事一覧

大山事件発生時にクロード・ファレールは上海にはいなかった

歴史修正主義者である東中野修道が反中プロパガンダでクロード・ファレールの随筆を引用して以降、ネトウヨにより頻繁に利用されている記述が、クロード・ファレールによる大山事件の描写である。 中には、クロード・ファレールが”証言”しているとまで言って…

ノース・チャイナ・デイリー・ニュース(North China Daily News)について

<ノース・デイリー・チャイナ・ニューズ> バンドの老婦人ことノース・デイリー・チャイナ・ニューズ紙は購読者の意見を代弁し、英国崇拝と中国人蔑視の調子で好評を博した。また経営者、モリス家は上海共同租界の最高行政機関、市参事会の議員に席を連ねて…

日本の宣伝戦に利用されたK・カール・カワカミ

K・カール・カワカミは本名・河上清といい、1873年生まれの日本人である。 民衆視点から社会主義やキリスト教に共感を抱き、万朝報記者として足尾銅山鉱毒事件などの追及を行い、1900年には社会主義協会結成に参加した。 しかし、1901年の社会民主党結成直後…

日中戦争での中国軍の死傷者数

日中戦争での中国側死傷者数については、中国側発表をことさら貶める右翼が多い。特に薄弱な根拠で捏造だと決め付けるネトウヨは軍事ヲタクの中にも数多くいて、醜いレイシズムをネット上でばら撒いている。日中戦争の一方の当事者であった蒋介石は自著で以…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における第一次上海事変

開戦(1932年1月29日) P271-272の記述。 その晩十一時、四百人の日本の海軍陸戦隊が虹口の江湾路の本部を出て、十八台の軍用トラックに乗り込んだ。街頭のほの明りのなかで、日本の民間人の一群が歓声をあげて彼らを見送った。 日本の軍用トラックと装甲車…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における大山事件

ハリエット・サージェントは1954年生まれのイギリス人女性コラムニストである。 父であるサー・パトリック・サージェントが文化大革命直後の上海に訪れた際に同行し、上海についての本を書くことになった。「上海 魔都100年の興亡」は歴史の本ではないが、こ…

囲剿(掃共戦、剿共戦、共産軍包囲討伐作戦)

開始 終了 国民党軍兵力 第一次囲剿作戦 1930/12/20 1931/1/3 第六路軍(5個師)、第九路軍(5個師)、第十九路軍(2個師2個旅) 第二次囲剿作戦 1931/2/10 1931/5/30 第五路軍(5個師)、第六路軍(5個師)、第九路軍(2個師)、第十九路軍(2個師…

大山中尉殺害事件における保安隊員の死因

大山事件で死亡した中国側保安隊員*1の死因については、中国側は日本側の発砲によるとし、日本側は同士討ちだと主張している。 酷い反中プロパガンダになると、中国側が”わざと”同僚を殺害した*2、あるいは、死刑囚を連れてきた*3、というものまであるが、そ…

上海停戦協定第2条により中国軍の進入が制限される地域

1932年の第一次上海事変の停戦協定で、上海市街地北方の広い地域が非武装地帯とされた。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第…

日本海軍陸戦隊西部派遣隊本部の場所

1937年8月9日に殺害された大山勇夫海軍中尉は、上海特別陸戦隊第一大隊第一中隊中隊長であった。この第一中隊は上海西部の日本資本の紡績工場地帯の警備のために上海西部に派遣されていた。 前回の記事では、西部派遣隊の本部がどこにあったかわからなかった…

上海駐在の日本海軍将校によるスパイ活動

平時においても駐在武官や駐留軍将兵らが、任地で諜報活動をするのは軍事的には普通のことである。1934年9月10月に中島中佐が行った虹橋飛行場の偵察活動も軍事的には当然の行動であるが、これは1937年8月9日の大山事件での大山中尉の行動を暗示してもいる。…

8月9日に大山勇夫中尉がモニュメント路(碑坊路)を通行した理由

1937年8月9日、日本海軍の大山勇夫中尉は、斉藤与蔵一等水兵の運転する自動車で上海西部のモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)を通り、そこで殺害された。 モニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は、中国空軍の軍専用飛行場である虹橋飛行場のすぐ東側を南…

大山事件に関する外務省の対外発表(8月11日)

外務省情報部長が事件2日後の1937年8月11日に公表した事件の説明だが、当然日本には一切非がなかったという主張になっている。実際にはこれらの説明には矛盾も多く、信頼性には疑問符がつくのだが、これをそのまま鵜呑みにして大山事件を日中戦争正当化や対…

上海大山中尉射殺事件の日本以外での報道

大山事件に関しては、当然ながら海外でも報道されている。中国側では南京放送が報道している。発表ソースは淞滬警備司令部であろうが、日本の同盟通信や朝日新聞が海軍省発表に依拠しているのと同じと言える。 その他、第三国メディア*1としてはロイター通信…

「各社特派員決死の筆陣支那事変戦史」で見る大山事件関連報道

反日ワクチンなるネトウヨサイト*1と同じくRed Foxなるネトウヨサイト*2で流布されている大山事件関連の日本特派員記事がある。あちこちでコピペされて使用されているが、この二つのサイトについては出典が明記されていた*3。 1937年12月に発行された「各社…

1939年末時点の上海共同租界義勇隊・警察

義勇隊 イギリス人 577人 ロシア人 253人 中国人 243人 アメリカ人 156人 日本人 116人 スペイン人 113人 ドイツ人 78人 その他 70人 合計 1734人 この他にロシア隊隊員323人を加えて、2057人である。*1 警察の人数と給料 国籍 人数 給料 一人当たり平均給料…

上海大山事件関連の朝日新聞報道(1937年8月10日)2

上海大山事件関連の朝日新聞報道(1937年8月10日)1 - 15年戦争史の続き 保安隊なお密集 昨深更・海軍省の発表 海軍では大山中尉射殺事件に関し十日午前一時海軍省副官談の形式で左の如く発表した。 第三艦隊参謀長よりの来電によれば 一、九日午後六時半頃…

上海大山事件関連の朝日新聞報道(1937年8月10日)1

朝日新聞は縮刷版を出しているので大きな図書館なら確認できるが、容易に手に入るものととしては「朝日新聞社編 朝日新聞に見る日本の歩み 破滅への軍国主義I(昭和12年-14年)」という抜粋版がある。縮刷版はまず貸し出し禁止だろうが、抜粋版は貸し出しで…

新四軍の成立

新四軍は正式名称を国民革命軍陸軍新編第四軍という。長征前の中国共産党が本拠地としていた江西省近辺には紅軍系の遊撃隊が多数残存しており、日中戦争開戦後の1937年10月に国共両党はこれらの紅軍系遊撃隊その他を再編することで合意した。 対象となった地…

衡陽作戦における第116師団(嵐)の損害

1944年6月26日から8月8日*1まで続いた衡陽攻略戦は大陸打通作戦の一環として行われた。衡陽は中国・米国連合空軍の華中における最大の前進基地であった。 日本軍は当初、第68師団と第116師団のみで攻略できると考えていたが、中国軍第10軍の軍長方先覚は頑強…

1932年1月22日の上海の政治状況

中国側(抗日救国会、市党部、工業連合会、北四川路商人連合会など) 20日の日本人居留民による三友実業社放火事件、工部局中国人警官殺傷事件、北四川路暴動、さらに21日の居留民団の脅迫じみた声明を受け、中国側の上海各界抗日救国会、市党部、工業連合会…

1932年1月21日の上海の政治状況

日本人居留民 日本人居留民デモ隊*1が北四川路で横暴の限りを尽くした翌1月21日、居留民団はさらに過激な声明を出した。 吾人は尊き生命の傷害を受け財産の掠奪も蒙り絶大なる通商の迫害に困窮し、尚且つこれ等権益の侵害に眠る帝国政府の無気力に対しては洵…

日本人居留民の反中デモ及び暴動

1932年1月18日の中国人による日本人僧侶殺傷事件、1月20日の日本人右翼による中国人経営の三友実業社工場襲撃放火事件及び上海共同租界工部局中国人警官殺傷事件。 これらの事件後の1932年1月20日、反中感情に染まった日本人居留民は大規模なデモを起こして…

戦争賛美に転じた与謝野晶子

与謝野晶子と言えば日露戦争に出征した弟を思い、「君死にたまふことなかれ」という反戦歌を書いたことで知られているが、この上海事変の頃には天皇崇拝に傾倒し、戦争賛美に転じている。 「君死にたまふことなかれ」は1904年9月に「明星」に発表された歌で…

満州事変開始以後の上海での排日侮日行動

第一次上海事変以前に上海の日本人居留民が中国人から迫害を受けていたという主張がある。 以下は外務省の記録である。 期間 暴行迫害侮辱件数 被害者数(内女性) 学生被害者 9月18日〜10月18日 198件 287人(48人) 394人 10月19日〜11月18日 149件 217人 …

上海青年同志会の正体

以前、テロ活動で上海事変を煽った青年同志会は大陸浪人か右翼団体の類であろうと書いたが、それが事実であることを確認した。三友実業社襲撃放火事件の首謀者である上海青年同志会会長の光村芳蔵は、当時46歳。本籍地は大阪である。 第一次上海事変勃発直後…

上海三友実業公司焼討事件に日本軍憲兵大尉は参加したか?

前回記載しなかったが、右翼団体の上海青年同志会による三友実業公司襲撃放火事件は、日本軍憲兵大尉が指揮したという説がある。情報の大本は田中隆吉自身の証言*1だが、そこでは「当時、上海に日本人青年同志会というのがあったんですが、それをちょうど上…

日本山妙法寺と田中隆吉・川島芳子*1の謀略の関連

以前、以下のように書いた。 しかし、おそらく日本山妙法寺も謀略に加担したのではないかという主張がどこかにあったのだろう。それで「それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。」と言ったと思われる…

1932年2月1日時点での各国駐屯軍、義勇隊の概数

国 人数*1 1月30日時点で人数*2 日本 3920 約2800 アメリカ 2750 1264 イギリス 3850 2086 フランス 960 1008 イタリー 160 160 義勇隊 1746 - アメリカ、イギリスの兵力が大きく違うのは、他のアジア地域にある海兵隊を上陸させたためか。アメリカはフィリ…

上海三友実業公司焼討事件

村井総領事の抗議 1932年1月18日夕方の日本人僧侶襲撃事件*1を受け翌19日午前、日本総領事・村井倉松は市政府に行き、不在の呉鉄城市長に代わって応対した兪秘書長に抗議した。 臼井勝美の「満州事変」によると兪秘書長の対応は以下の通り。 事件発端の曲非…