8月9日に大山勇夫中尉がモニュメント路(碑坊路)を通行した理由

1937年8月9日、日本海軍の大山勇夫中尉は、斉藤与蔵一等水兵の運転する自動車で上海西部のモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)を通り、そこで殺害された。
モニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は、中国空軍の軍専用飛行場である虹橋飛行場のすぐ東側を南北に走る道路である。租界外拡張道路とも呼ばれるエクステンション(越界路)であるが、警察権は上海租界工部局にあるか中国公安局にあるか決まっておらず係争中であった。モニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は、上海市街地から遠く離れ中国側の軍事施設である虹橋飛行場以外にはわずかな民家とゴルフリンク、豆畑がある程度の辺鄙な郊外であり、現実問題として租界工部局警察が治安担当できる地域ではない。
大山事件発生後、日本も租界工部局も越界路は租界内だと主張しているが、法的に越界路での租界工部局の権限を保証するものはない。

大山中尉は日本資本の西部紡績工場地帯の視察をしていただけ?

上海西部には確かに日本資本の紡績工場がある。最大は内外綿紡績会社であり、他に豊田紡績、上海絹糸、日華紗廠、東亜製麻などの工場がある。しかし、これらは蘇州河畔にありモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)から遠すぎる。最もモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)に近いのは豊田紡績の工場であるが、事件現場からは直線距離で7〜8キロは離れている。

大山勇夫中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)と斎藤與蔵 (よぞう) 一等水兵は共に上海特別陸戦隊所属で、大山中尉は西部紡績工場地帯派遣隊隊長で、派遣隊本部より視察および陸戦隊本部への連絡に向かう途上での事件とされている。

http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-9.html

と書いているサイトもあり、大山事件に関する外務省の対外発表(8月11日) - 15年戦争史でも、

2. Sub-Lieutenant Oyama was on his way to the Headquarters of the Naval Landing Party from the western outpost (where one company of the marines is stationed) of which he was commander and whose duty it was to safeguard the lives and property of the Japanese in this district.

と外務省情報部長発表にある。西部派遣隊本部の位置は明記されたものがないが、その任務から紡績工場や社宅の集まる蘇州河近辺であることは間違いないだろう。
しかし、外務省情報部長のいうように大山中尉が陸戦隊一個中隊が駐屯する西部派遣隊本部から陸戦隊本部(北四川路)にただ向かったのなら、絶対にモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は通らない。西部派遣隊本部から見て陸戦隊本部は、ほぼ東にあるが、西部派遣隊本部から見てモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は西にあるからだ。
また、虹橋路やモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)附近には日本の紡績工場はない。

したがって、大山中尉らがモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)に行った目的が、西部紡績工場地帯の視察ではないことは明らかである。

どこを視察したか?

大山事件に関する外務省の対外発表(8月11日) - 15年戦争史は次のように続く。

There are in the western district Japanese-owned spinning factories such as the Toyoda-Boseki and Naigaimenka-Boseki. It was quite proper for him to make the necessary inspection of the neighbourhood of the Monument Road where at about 6 p.m. he was shot dead, together with First-class Seaman Saito who was driving the officer's car.

上海西部には豊田紡績や内外綿紡績と言った日本資本の紡績工場があり、大山中尉らはモニュメント路(碑坊路)の近隣の必要な視察(inspection)を行ったのは当然だと言っているが、地図を見れば明らかな強弁でしかない。
大山中尉が視察しようとしたのは、虹橋飛行場以外に考えられない。

虹橋飛行場を偵察する必要性

当時、日本軍にとっては虹橋飛行場の状況、特に軍用機の展開状況などは何が何でも知りたい情報だった。事件10日前の1937年7月末には華北で北平(現・北京)が日本軍に占領されさらに日本軍の侵攻が続いていた。中国人にとっては古都・北京が日本軍に占領され、抗日意識が高まっており、上海近郊の保安隊も8月に入って連日示威的な演習を繰り返していた。
この状況下で、上海に駐留する日本軍が中国軍側の軍備状況を確認したいと思わないはずがなく、その重要な対象が虹橋飛行場であることも明白である。

なお、事態がここまで緊迫していなかった1934年9月と10月に日本海海防艦「出雲」の中島飛行長が虹橋飛行場を「視察」した記録が残っている*1。9月の「視察」では初日は制服着用の上、自動車で行ったが飛行場正門で警備兵に止められ、引き返している。翌日、自動車を虹橋鎮に置いて、平服に着替え徒歩で虹橋飛行場南方の畑から飛行場内部の施設を偵察している。制服も着ていないのだからスパイ同様の行為であり、逮捕されれば国際問題になりかねない行動である。

中国側の虹橋飛行場防諜の措置

具体的な記録はないが、1937年8月9日午後9時45分にに日本海軍特別陸戦隊が発表した記事内には、

(略)支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防御施設を構築し夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなど(略)

http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101125/1290793573

とあり、おそらくは虹橋飛行場附近の越界路も同様の措置がとられていたことが推定できる。

*1:アジア歴史資料センター「出雲機密第33の22号 昭和9.11.11 中国飛行場視察報告の件」レファレンスコード:C05023611900