ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における第一次上海事変

開戦(1932年1月29日)

P271-272の記述。

 その晩十一時、四百人の日本の海軍陸戦隊が虹口の江湾路の本部を出て、十八台の軍用トラックに乗り込んだ。街頭のほの明りのなかで、日本の民間人の一群が歓声をあげて彼らを見送った。
 日本の軍用トラックと装甲車は閘北の中心部、上海北駅の広大な操車場、車庫、それに倉庫に向かった。水上飛行機がその頭上で旋回し、作戦成功の知らせを旗艦上の将軍に送ろうと待機していた。
 日本軍は上海北駅からわずか五百メートル手前で土嚢と街灯の柱の間に架け渡され、机や椅子で支えられた有刺鉄線の、俄か作りバリケードに道を阻まれた。この頼りない障害の陰には、十九路軍が待ち構えていた。とは言っても、彼らはそこで未払いの給与を受け取っただけで、すでに多くは車中の人としてこの駅を離れていた。ある上海生活の経験者が語ったように、「だれも、中国人兵士が実際に戦うとは思っていませんでした」
 ハレット・アーベントはガーデン・ブリッジの対岸で、二発の銃声に続いて、機関銃の轟音を聞いた。
 日本軍は明るく照らされて行進していた。松明を掲げた二人の兵士が各分隊に同行し、彼らは虹口と閘北の全域に配置された、蔡将軍の私服狙撃兵の格好の標的になっていた。アーベントが聞いたのは、日本兵を狙い撃ちにしたその銃声だった。松明が急いで消されたあとも、海軍陸戦隊の影は共同租界の灯火を背景にして、くろぐろと浮き上がっていた。
 不意を突かれた日本の司令部は、狙撃兵の活動を封じようと、オートバイ部隊に北四川路を猛スピードで往復させ、二、三階の窓に一斉射撃を加えた。しかし彼らはなぜか、蘇州河の近くの郵便局から北河南路にいたる四ブロックは無視している。この部分の建物には灯火がともり、交通も自由だった。

日本軍の目論見

P273の記述。

 日本軍は四時間で上海を占領できると豪語したが、日本の陸戦隊と私服の予備役からなる三千人の大軍は、黄浦江まで押しもどされ、週末いっぱい*1、中国の狙撃兵と戦っていた。日本兵が、虹口で通常共同租界の警察が果たしていた任務を奪ったことは、イギリスとアメリカの反感を買った。
 戦闘は続いた。日本の陸上部隊二万人の到着と、日本の飛行機からの爆弾の投下、日本軍の銃撃、それに黄浦江の艦隊からの砲撃という、「上海の周辺んいかつてなかった激しい攻撃」にもかかわらず、十九路軍は蒋介石の協力を得られないまま、自力で日本軍の侵攻を阻んでいた。

日本軍の残虐行為

P277の記述。

 閘北に残った中国人たちは、食糧も水もないまま、身動きできなかった。外に出れば、私服の日本人予備兵に出会う危険があった。
 二人のイギリス人が海寧路と乍浦路の近くで見かけたように、日本人が中国人を虐待しているところを二人が注意すると、彼らは鉄棒と野球用のバットで襲いかかってきたという。アメリカの南部メソジスト宣教団のメンバーは、歩道に横たわっている中国人民間人に銃剣を向ける日本人水兵を見たという。水兵はその銃剣で中国人の胸を刺すと、狙う位置を変えて、六、七回、中国人の体が動かなくなるまで刺したのである。水兵はそのあと、何ごともなかったように、先を巡回中の仲間に合流した。
 中国人の女性には、違う種類の危険が待ち構えていた。ある十七歳の少女は蘇州から母親を捜しにきていたが、七人の日本兵に農家に連れ込まれ、医師の報告によれば、まずその一人に、ついで残り全員に、替わるがわる強姦された。兵士は四人がかりで、彼女の手足を一本ずつ抑えつけた。彼らは、少女の出血が始ると、恐ろしくなって逃げ出したという。「少女は翌朝連れて来られたときにも、まだ出血していた。診察の結果、外部には、暴行の跡が見られなかったが、内部には、後部膣壁にほとんど直腸に達する大きな裂傷があった」警官は彼女から詳しい事情を聞き出すことができなかった。「出血のせいかもしれないが、意識がもうろうとしていたようである」と、医師は付け加え、驚くほどの無理解を示した。

*1:おそらく、1932年1月31日日曜日ころまでを指す