日本支配下の琿春
琿春は中国吉林省延辺朝鮮族自治州に属する。朝鮮に隣接し朝鮮系住民も多く1910年の韓国併合後は朝鮮独立運動、特に武装闘争の根拠地となった。
それ故に日本による討伐・弾圧が頻繁に行われた。
1931年9月の満州事変後、中国東北地方が日本の傀儡国となり、琿春も日本支配下となった。
1932年に間島臨時派遣琿春支隊が琿春に駐屯し、1937年6月に琿春駐屯隊に改編された。1938年には管轄が朝鮮軍から関東軍に移る。なお、1933年には琿春に特務機関が設置されている*1。
1940年には琿春駐屯隊に加えて、第9国境守備隊が琿春に設置される。
1940年4月28日 第9国境守備隊編成完結*2
第9国境守備隊*3
守備隊本部:間島省琿春にて編成
歩兵隊本部+歩兵中隊 4:慶源にて編成、間島省琿春県五家子に移駐
砲兵隊本部+砲兵中隊:間島省琿春にて編成
工兵隊:間島省琿春にて編成
琿春駐屯隊も第9国境守備隊も歩兵4個中隊で一個大隊規模である。
琿春駐屯隊本部(8名+主計等11名)1937年12月14日編制改正完結
http://marc73.hatenadiary.jp/entry/2019/10/31/080000
琿春駐屯歩兵隊(1181名+主計等36名)1937年12月12日編制改正完結
琿春駐屯山砲隊(206名+主計等10名)1937年12月11日編制改正完結
琿春駐屯隊本部付属
憲兵要員(45名+憲兵補6名+馬取扱者12名)
電信通信要員(27名+文官傭員2名)
この2個大隊体制も太平洋戦争開戦後の1942年5月に琿春駐屯隊の復帰解隊が決まり、1942年6月には琿春駐屯隊は第71師団に編入され、7月には佳木斯に移駐した。
2年後の1944年7月に斉斉哈爾で編成着手された第112師団(第28師団残部と在満核部隊からの転入で編成)が1944年8月7日に琿春に移駐し、8月10日に編成完結。
第112師団*4:軍令陸甲第82号による編成下令。
司令部:第28師団残置者を基幹として編成。
歩兵第246連隊:歩兵第30連隊残置者を基幹として編成。
歩兵第247連隊:歩兵第3連隊残置者を基幹として編成。
歩兵第248連隊:歩兵第36連隊残置者を基幹として編成。
この1個師団1個国境守備隊の体制は短く、第9国境守備隊が1945年1月に第127師団に改編されると、2個師団体制となる。
第127師団*5:軍令陸甲第9号による編成下令。
司令部:第112師団と第9国境守備隊からの転入者を基幹として編成。
歩兵第280連隊:第9国境守備隊歩兵中隊を基幹として編成。当時の充足人員約1450名。
歩兵第281連隊:第112師団の歩兵第246,247,248連隊からの転入者を基幹として編成。
歩兵第282連隊:独立歩兵第269,270大隊及び歩兵第281連隊からの転入者を基幹として編成。
第112師団の人員数は14567名(うち兵科13319名)(1945/1/31調)、第127師団の人員数は12498名(うち兵科11984名)。その後も現地応召などで増員しており、これらの根こそぎ動員で兵員数のみは大きくなった。
第127師団は、延吉など琿春近郊に配置された。
琿春には慰安所も5軒存在していたという。時期は2個大隊体制の頃と思われる。兵隊1000~2000人あたり慰安婦50人ほどとみられ、兵士20~40人に慰安婦1人という割合になる。
下記の証言は慰安婦徴集の実態が人身売買であったことを示している。
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=805琿春(琿春駐屯隊、第九国境守備隊)
島本重三(第七三三部隊工兵一等兵)兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。
兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。
日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。
せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。(P32)出典:私たちと戦争〈2〉戦争体験文 島本重三 軍「慰安所」/タイムス(1977)
———————————————————–
畑谷好治(憲兵伍長)
私が赴任して一年程の間に三軒の慰安所が新規開業した。琿春は国境の特殊地帯であるために住民は居住証明書を所持せねばならず、初めて入琿する慰安婦たちは憲兵隊に出頭し、慎重な身上調査を受けた後、身分証明書の交付を受けていた。
私も何度か彼女たちの面接を受持ったが、必要書類に本籍、住所、氏名、年齢、学歴、家族構成等が書きこまれ、写真が貼付されてあった。
憲兵は防謀的見地からの注意義務を教え、思想、軍事知識の有無等の身上調査を主眼として審査をしていた。
私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」
と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」
「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる云々」と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきりと認識している女は少なかった。
あるいはわざと返事をぼかしていたのかも知れないし、自分のロから公娼になるのだとは言えなかったのかも知れなかった。
女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、または親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。(P107~108)出典:遥かなる山河茫々と/畑谷好治 旭図書刊行センター(2002)
*1:「満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、1932年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年には琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。これらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長が統制した。」
*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004766300、密大日記 第5冊 昭和15年(防衛省防衛研究所)」
*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122502300、満洲方面部隊略歴(二)(防衛省防衛研究所)」
*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122426400、陸軍北方部隊略歴(その2) 第1方面軍(191頁~420頁) 第3方面軍(431頁~692頁)(防衛省防衛研究所)」
*5:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122426500、陸軍北方部隊略歴(その2) 第1方面軍(191頁~420頁) 第3方面軍(431頁~692頁)(防衛省防衛研究所)」