2010-12-01から1ヶ月間の記事一覧

大山事件発生時にクロード・ファレールは上海にはいなかった

歴史修正主義者である東中野修道が反中プロパガンダでクロード・ファレールの随筆を引用して以降、ネトウヨにより頻繁に利用されている記述が、クロード・ファレールによる大山事件の描写である。 中には、クロード・ファレールが”証言”しているとまで言って…

ノース・チャイナ・デイリー・ニュース(North China Daily News)について

<ノース・デイリー・チャイナ・ニューズ> バンドの老婦人ことノース・デイリー・チャイナ・ニューズ紙は購読者の意見を代弁し、英国崇拝と中国人蔑視の調子で好評を博した。また経営者、モリス家は上海共同租界の最高行政機関、市参事会の議員に席を連ねて…

日本の宣伝戦に利用されたK・カール・カワカミ

K・カール・カワカミは本名・河上清といい、1873年生まれの日本人である。 民衆視点から社会主義やキリスト教に共感を抱き、万朝報記者として足尾銅山鉱毒事件などの追及を行い、1900年には社会主義協会結成に参加した。 しかし、1901年の社会民主党結成直後…

日中戦争での中国軍の死傷者数

日中戦争での中国側死傷者数については、中国側発表をことさら貶める右翼が多い。特に薄弱な根拠で捏造だと決め付けるネトウヨは軍事ヲタクの中にも数多くいて、醜いレイシズムをネット上でばら撒いている。日中戦争の一方の当事者であった蒋介石は自著で以…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における第一次上海事変

開戦(1932年1月29日) P271-272の記述。 その晩十一時、四百人の日本の海軍陸戦隊が虹口の江湾路の本部を出て、十八台の軍用トラックに乗り込んだ。街頭のほの明りのなかで、日本の民間人の一群が歓声をあげて彼らを見送った。 日本の軍用トラックと装甲車…

ハリエット・サージェント「上海 魔都100年の興亡」における大山事件

ハリエット・サージェントは1954年生まれのイギリス人女性コラムニストである。 父であるサー・パトリック・サージェントが文化大革命直後の上海に訪れた際に同行し、上海についての本を書くことになった。「上海 魔都100年の興亡」は歴史の本ではないが、こ…

囲剿(掃共戦、剿共戦、共産軍包囲討伐作戦)

開始 終了 国民党軍兵力 第一次囲剿作戦 1930/12/20 1931/1/3 第六路軍(5個師)、第九路軍(5個師)、第十九路軍(2個師2個旅) 第二次囲剿作戦 1931/2/10 1931/5/30 第五路軍(5個師)、第六路軍(5個師)、第九路軍(2個師)、第十九路軍(2個師…

大山中尉殺害事件における保安隊員の死因

大山事件で死亡した中国側保安隊員*1の死因については、中国側は日本側の発砲によるとし、日本側は同士討ちだと主張している。 酷い反中プロパガンダになると、中国側が”わざと”同僚を殺害した*2、あるいは、死刑囚を連れてきた*3、というものまであるが、そ…

上海停戦協定第2条により中国軍の進入が制限される地域

1932年の第一次上海事変の停戦協定で、上海市街地北方の広い地域が非武装地帯とされた。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第…

日本海軍陸戦隊西部派遣隊本部の場所

1937年8月9日に殺害された大山勇夫海軍中尉は、上海特別陸戦隊第一大隊第一中隊中隊長であった。この第一中隊は上海西部の日本資本の紡績工場地帯の警備のために上海西部に派遣されていた。 前回の記事では、西部派遣隊の本部がどこにあったかわからなかった…

上海駐在の日本海軍将校によるスパイ活動

平時においても駐在武官や駐留軍将兵らが、任地で諜報活動をするのは軍事的には普通のことである。1934年9月10月に中島中佐が行った虹橋飛行場の偵察活動も軍事的には当然の行動であるが、これは1937年8月9日の大山事件での大山中尉の行動を暗示してもいる。…

8月9日に大山勇夫中尉がモニュメント路(碑坊路)を通行した理由

1937年8月9日、日本海軍の大山勇夫中尉は、斉藤与蔵一等水兵の運転する自動車で上海西部のモニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)を通り、そこで殺害された。 モニュメント路(碑坊路)(現・綏寧路)は、中国空軍の軍専用飛行場である虹橋飛行場のすぐ東側を南…

大山事件に関する外務省の対外発表(8月11日)

外務省情報部長が事件2日後の1937年8月11日に公表した事件の説明だが、当然日本には一切非がなかったという主張になっている。実際にはこれらの説明には矛盾も多く、信頼性には疑問符がつくのだが、これをそのまま鵜呑みにして大山事件を日中戦争正当化や対…