2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

綏遠事件の推移

綏遠事件に関してはネット上には情報が乏しく、Wikipediaなどは例によって「内蒙古独立戦争」という歴史修正主義な中途半端な記載となっている。事件の時系列について詳細に述べているものは少ないので、簡単にまとめておく。関東軍を後ろ盾にした徳王は1936…

南京路事件(1937年12月3日)

上海が陥落して約一ヵ月後、日本陸軍は上海租界内で示威行進を強行した。アメリカは租界内での行進を止めるよう外交ルートで日本に求めたが松井石根軍司令官の強い希望により斥けられた。参考:クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件…

北支那方面軍第十二軍独立混成第五旅団独立歩兵第19大隊第1中隊の討伐時編成例

山東省に駐留した第十二軍麾下の独立歩兵第19大隊第1中隊が1943年1月7日から実施した討伐における編成。 指揮班 8人 班長(軍曹クラス) 重機一個分隊 11人 分隊長(伍長・軍曹クラス)、銃手4名、弾薬手4名、馭兵2名*1 二個小隊 約60人 1個小隊約30人*2 県…

通州事件時の日本軍守備隊兵力

部隊名 長 広中一成の記載*1 寺平忠輔の記載*2 通州兵站司令部 辻村憲吉中佐 2人 - 山田自動車部隊 山田正大尉 53人 50人 通州警備隊 藤尾心一中尉 49人 40人 通州憲兵分遣隊 松村清准尉 7人 (その他合わせて)20人 病馬収容班 - 5人 - 野戦倉庫員 - 2人 - …

通州事件犠牲者の状況

日本総領事館警察通州分署の事件直後の調査によると、1937年7月29日の通州事件における犠牲者は、内地人*1208人中114人死亡、鮮人*2213人中111人死亡、合計で225人が死亡している。 この他に、支那駐屯軍麾下の通州守備隊や憲兵隊があり、事件当時通州にあっ…

支那駐屯軍の増兵

1936年4月、日本軍はそれまで歩兵10個中隊(北京:2個、天津:8個)、砲兵1個中隊、工兵1個小隊の約1770人だった支那駐屯軍の兵力を約3倍に増強することを決定した。日本軍にとっては、中央を無視する傾向の強い関東軍の華北工作を牽制するため支那駐屯軍を…

通州城新南門外 宝通寺の戦闘(1937年7月27日)

日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の首都・通州は北京の東方約10キロにある小さな都市である。通州は1935年の塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の境界線上に位置し、城内及び城外南東部には冀東政府保安隊が駐屯しており、城外南西部の宝通寺には冀察…

通州事件の報道

通州事件とは、1937年7月29日に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府所属の保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊及び冀東政府関連施設を攻撃した事件を指し、その際日本人居留民にも多くの犠牲者が出ている。 事件直後の8月には、日本陸軍は通州事件をプロパ…

Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘

Wikipediaの「塘沽協定*1」のページには山海関事件に関する項目がある。 1933年1月1日〜3日の第三次山海関事件の発端については、日本軍守備隊長落合甚九郎の陰謀説が有力である。そして、この事件により山海関城を完全に抑えた日本軍は、直後に始まる熱河侵…