日本の宣伝戦に利用されたK・カール・カワカミ
K・カール・カワカミは本名・河上清といい、1873年生まれの日本人である。
民衆視点から社会主義やキリスト教に共感を抱き、万朝報記者として足尾銅山鉱毒事件などの追及を行い、1900年には社会主義協会結成に参加した。
しかし、1901年の社会民主党結成直後に政府から結党禁止にされると日本を離れ渡米したが、後藤新平などはアメリカでのロビー活動要員候補として、300円もの大金を渡し手懐けている*1。
1900年代は日本対ロシアの構図から、アメリカでの対日感情は一般的に悪くは無く、欧米人の人種差別感情も圧倒的な優越感からか日本人に対して表面化することはあまりなかった。
1900年に出版された新渡戸稲造の「武士道」も欧米での高評価に貢献しており、欧米諸国の人権派知識人らも人種差別反対の啓蒙を続けていた。カール・カワカミはこのような欧米知識人と交流し、日露対立下の日本擁護の国際世論構築のための宣伝戦を行った日本政府との関係を深めていった。
1906年には、ニューヨーク・タイムスの書評欄にカール・カワカミの評論が記載されるようになったが、日露戦争後のこの頃から米国内の対日感情が徐々に悪化していく。
1910年の韓国併合、1915年の対華21か条要求、1918年の対ソ干渉戦争と、日本の大陸侵略の意図が徐々に欧米で懸念されるようになり、また日本人移民の増加に対するアメリカ人の対日感情も悪化している。1908年にはアメリカへの移民を自主規制する紳士協定も「写真結婚」という抜け道が多用され、それが人身売買まがいであったことも対日感情を悪化させている*2。
日本の対外政策は朝鮮・中国・ロシアの民衆を踏みにじるものであり、国内政策も農村の疲弊や都市労働者の悲惨な状況を救うことができていなかったが、アメリカにいたカール・カワカミには日本を含むアジア民衆の苦しむ姿が見えていなかった。カール・カワカミに見えていたのは、アメリカ国内での対日差別に苦しむ日本人移民だけだった。
日本国の行動に対する反感が、在米日本人に差別となって向けられる現状をカール・カワカミは憂い、また日本政府からの資金援助もあり、結果として日本国の対外行動を正当化する評論を数多く掲載するようになった。
これが1920年代以降カール・カワカミが「日本の政策の代弁者」と呼ばれた所以である。
1931年に起きた満州事変は明らかな日本の侵略行動であり国際的に非難されたが、これもカール・カワカミは擁護している。欧米列強は大恐慌のさなかであったこともあり、また日本の横暴も遠いアジアの出来事であり、一部では中国のナショナリズムに対する牽制として日本を利用できるという主張もあったため、満州事変だけで急激に日本に対する危機感を募らせることにはならなかった。
しかし、満州事変以降も続いた第一次上海事変、満州国建国、日本の連盟脱退、日独接近と、米英の危機感は着実に高まっていった。
1930年代中盤以降になると、カール・カワカミは日本の中国侵略に対して懸念を抱きはじめるが、中国民衆に対する共感ではなく、日米武力衝突に対する危機感からであった。アメリカに長く在住していたカール・カワカミはアメリカの国力・世論を肌で知っており、情報統制下の日本国内における無責任な世論とは比較にならない危機感を持っていた。
特に1937年の南京攻略の際のパネー号事件は、米国の世論を激昂させていた。米西戦争の直後に渡米したカール・カワカミも、メイン号爆沈事件は知っていたはずであり、当時と同様の「リメンバー・パネー」の世論はカール・カワカミを恐れされただろう。
この中でカール・カワカミが書いたのが「Japan in China」である。
Japan in China 1938
カール・カワカミはこの本で、欧米諸国の反共感情に媚を売って共産主義の脅威から中国国民党と共産党の関係を誇張し、日本の中国侵略が正当だと主張している。ヒトラーが反共を連呼して資本主義諸国の共感を得ようとしたのと同じである。
現在、この本は歴史修正主義の右翼諸氏に過剰に評価されており、「シナ大陸の真相」*3との邦題をつけた訳書も出ているが、内容的には誤りが多く、執筆目的から当然に偏向された内容で、全責任を中国側に押し付けた記述となっている。1938年当時の日本のプロパガンダの実態を知る以外には役に立たない内容である。
参考:http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/shanhai1.html
太平洋戦争開戦以後
1941年に日米開戦をすると日系人は抑留され、カール・カワカミもスパイ容疑で逮捕されたが、早いうちに釈放されている。その後、連合国支持に転じているが、国策を誤り続け日米戦争にまで突入してしまった日本政府に対する失望感と、日系人抑留と言う最悪の差別的状況を改善するための必要性からの転向であろう。
また、米ソ関係も比較的良好だった当時のアメリカは、カール・カワカミにとって悪くない環境だっただろう。