閻錫山工作(対伯工作)

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13071082300、上奏文(写)(防衛省防衛研究所)」
上奏文(写) 元第1軍司令官 元陸軍中将 岩松義雄

四、山西軍に対しては従来の謀略工作を強化促進し昭和十六年九月十一日に基本協定及停戦協定を、同年十月二十七日に停戦協定細目を締結せり 同年十月下旬山西軍の後方に在りて該軍の動向を監視し且合作を妨害しありし胡宗南指揮下中央軍の一部を撃滅し又一方閻錫山に対し東亜建設を基調とする日華合作に関する討議啓蒙と山西軍に対する威圧態勢の強化其の他の施策を続行し遂に本十七年五月六日閻錫山の本拠克難坡を去る南方約三十粁安平村に於て会見するの運びとなれり 同会見は合作に関する根本理念一致せるも具体的合作条件に於て合致せず為に決裂するの止むなきに至りたるは誠に遺憾とする所なり
爾後軍は中央の認可を得て閻錫山宛五月十七日既成協定破棄を通告し又閻錫山の優柔不断なる性格を是正し其の反省を促す目的を以て一部山西軍を殲滅し或は之を投降せしめ又経済封鎖を強化中なり

岩松義雄の上奏文によれば、国府軍第二戦区司令長官である閻錫山と日本軍は1941年9月11日に基本協定・停戦協定を結び、1941年10月27日には停戦協定細目が決定・締結されている。ほぼ同時に日本軍は、閻錫山の山西軍を監視していた蒋介石直属の胡宗南軍を攻撃しており、閻錫山に対する圧力であることを岩松は自覚している(「山西軍に対する威圧態勢の強化」を続行とある)。
1942年5月6日に第1軍司令官・岩松義雄と第二戦区司令長官・閻錫山との会見が実現するが「日華合作」は実現せず決裂した。交渉決裂に激怒した岩松は1942年5月17日に協定破棄を通告して軍事攻撃と経済封鎖を行っている。
(史料:「対伯工作に関する岩松資料」 自昭和16年6月至昭和17年5月(【 レファレンスコード 】C11110869200、C11110869300、C11110869400、C11110869500))

1942年5月に第一軍が行なった軍事作戦は、中共軍と国府軍に対するもので中共も副参謀長の左権が戦死するなど被害を受けたが日本軍の包囲網からの脱出には成功している*1
1942年5月から7月にかけておこなった粛正作戦(中国側では「太行太岳夏季反「掃討」作戦」と呼称)が終わった後、岩松は第一軍司令官を解任され軍事参議官を経て予備役に編入されている。ひとつには閻錫山工作の失敗が原因の左遷であろう。

閻錫山の思惑

閻錫山が投降工作をしきりに進める日本軍と接触するのは1940年頃らしい*2山西省を支配していた軍閥・閻錫山にとって、中国共産党が敵なのは当然だが、国民政府も味方とは言えない。蒋介石の腹心胡宗南の率いる大軍は中共を監視しているが、同時に山西軍をも監視しているともいえる。日本軍が中共や国府中央軍に攻撃を集中してくれるのなら、閻錫山としては願ったりであり、日本軍と利害が一致していた。
1940年の百団大戦後の日本軍による報復(晋中作戦)で中共軍は大きな損害を受け、1941年の中条山会戦で国府中央軍(衛立煌)も大きな損害を受けていた。閻錫山が日本側に寝返るための準備ともいえる状況だったが、閻錫山は非公式な停戦協定までしか認めなかった。
日本側の態度が高圧的であったこと、先に対日協力に走った汪精衛の傀儡状態を認識したこと、そして閻錫山が日本と停戦するという噂に対する民衆の反応などが影響したのだろう*3。麾下の趙承綬も日本側の対応にかなり警戒していたようだ*4

河本大作の登場

1942年5月〜7月の閻錫山の山西軍に対する日本軍の攻撃により日本軍と山西軍の間は緊迫化し、公式ルートでの閻錫山工作が困難になると民間人を装った工作に転換する。
国策会社である山西産業株式会社の社長として河本大作が赴任する。もちろん河本大作とはかつて張作霖爆殺事件を起こした日本軍人である。第一軍参謀長である花谷正少将の同志でもあり花谷の工作によって社長に就任し、山西省の産業界を占領軍の支配下に組み込む統制化が急速に進展することになる。
第一軍どころか北支那方面軍にまで隠然とした影響力を持つ河本により、日本軍と閻錫山との妥協が非公式に進み、戦後も日本軍や居留民が国府軍に流用される素地が作られた。

*1:http://japanese.cri.cn/782/2014/10/03/142s227419.htm

*2:「近代名人幕府双書 三晋有材−閻錫山幕府」岳麓書社、P85

*3:「近代名人幕府双書 三晋有材−閻錫山幕府」岳麓書社、P85-86、109-111

*4:「近代名人幕府双書 三晋有材−閻錫山幕府」岳麓書社、P237-239