日本報道に見る1939年7月頃の山西省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071)
大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6)

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北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6)

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(5) 山西篇 黒煙吐く四十工場 軍管理した・活溌な生産
事変第三年に入っての第一の贈りものは山西省の復興であろう、かつては敵の手中にあった工場が、紺碧の空に黒煙を吐き、轟音をあげて歯車が回転し、砂金が掘られ、石炭層につるはしが振われ、日支人が汗にまみれて生産に躍動する、たくましい興亜建設の行進譜である
閻錫山が山西開発十年計画の結果、かち得た四十六の工場は、軍管理の下に、すでに四十工場が復興し、ぐんぐん生産を開始しているのだ、山西ほど戦争と生産が緊密に結びつき、建設にまで飛躍したところもすくないであろう、皇軍入城後、僅かに二ケ月にして、太原の紡績工場は軍隊の布団をつくり、毛織工場は毛布を織り、煙草工場は煙草の製造を開始して、兵站の役割を果したのであった、この軍管理工場が昨年中にあげた純利益が百二十万円に達した、金額は勿論僅かではある、しかし敵地でしかも戦争の破壊の中からあげたこの純利は躍進日本をシンボライズする所産として幾億の黄金にも換え難い価値がある
これが山西全省占領後の僅か一ケ年を出ない所産であるにおいてはまさに驚異の一言に尽きよう、この四十工場の種別を示せば

紡績四、毛織一、製粉五、炭鉱五、製鉄一、鉄鉱一、発電八、製紙一、機械修理二、皮革一、曹達一、煙草一、マッチ三、煉瓦一、印刷一、火薬一、製塩一、洋灰一、製材一

でこのほか、近く復興または開発の運びにあるものは共産軍のドル箱、代県の砂金鉱が大倉工業の手で年産三千万円を目標に輸送道路を建設中であり、太原の製鉄所も八月中旬には火入れ出来る準備が完了した、生産の都山西の輝かしい復興振りである
問題の大同−太原間広軌改造工事も、六月中旬すでに完成、正太線また広軌改造の工事中だが、その完成のあかつきこそ、山西の経済は北支産業開発の第一線に、クローズアップされ、大きなエポックを画するものと期待してよい、ただこの経済工作と並行して金融工作、つまり山西票回収が意外に進捗しないことだけが、今後に残された問題であろう
政治工作も飛躍の段階にある、六月末現在で県政府の成立を見たのが九十二県のうち、四十三県、治安維持会の成立は六県におよぶ、注目すべきは「山西の復興は山西人の手で」をスローガンに、若き青年層の自覚が著しく進んだことだ、抗日青年決死隊など、皇軍に死の抵抗を試みた青年が翻然と誤れる思想から離脱し、インテリ層はこぞって宣撫官を志望、三ケ月の訓練を経て砲煙弾雨をくぐり“興亜建設”“防共”の大旆をかかげ、明日の山西建設に孜々として活動している有様は山西の大きな希望である、だが、この政治的飛躍も、経済的復興も、所詮は治安回復の賜である、昨年三月、風陵渡(山西最南端)を占領、大黄河皇軍の武威を誇示してから一年四ケ月、この間、南部山西粛清戦二旬にわたる共産軍の本拠五台の覆滅および吉県討伐、静楽進撃等幾多の大作戦が繰返された、だが山西の完全粛清は未だしである
昨年三月から本年三月までの一年間の戦闘回数がナント四千百二十三回、交戦の敵兵力が延べて百九十七万七千六百六十四人、敵に与えた損害が無慮十五万九千五百八人、その戦果の数字を見て如何に皇軍が辛苦を重ねつつあるかがうなづけるであろう、しかし、この頑敵も最近頓に戦意を喪失した、すでにわが軍に降服し、皇協軍として残敵討伐に協力する支那軍は四万にも上っている、ただ共産軍の問題が山西の治安回復の過程に、錯雑な障害をもたらすであろうことはいなめない、排他的な山西奥地の人間に、巧みな政治工作を施し、抗日スローガンでアッピールしているだけに、根強い禍根が残されるわけだ、が、それもただ時の問題に過ぎないであろう
山西における邦人の進出は驚異である、太原のみでも現在八千余名に達し、一万突破も遠くはない、思えば事変前、全山西省を通じて太原に僅か十七名、それも軍、満鉄関係に限られていたことを思えば、真に隔世の感がある、日本人小学校が出来、幼稚園が生れ、カフェー、料理屋等、まさに日本食の氾濫である最近、鐘紡は太原のメーンストリート橋頭街に四階建のデパートを開設、支那人をアッと驚かせた、いま太原には、五十万の都市計画が進められ、明日の建設に息吹いている(太原にて五十嵐本社特派員)

[図表あり 省略]

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データ作成:2003.10 神戸大学附属図書