日本軍による山西省の粛正作戦(1941年〜1942年)

「近代日本戦争史 第四編 大東亜戦争
(第七節 中国大陸の諸作戦 (森松俊夫)P598)
(略)
 山西省では、第一軍が二月に山西省全域で剿共戦を実施し、五月から南部大行山脈内の共産党軍根拠地と残存の国民党軍を攻撃した。共産党軍と国民党軍は、地盤の確保拡大を図って相争っており、日本軍が国民党軍に打撃を与えると、その地域に共産党軍が勢力を浸透させた。華北では、日本軍、国民党軍、共産党軍の三者鼎立関係にあったが、日本軍にとっての主敵は共産党軍であった*1
 また、対閻錫山工作(対伯工作という)を継続した。山西軍十数万を指揮する第二戦区軍司令官閻錫山にたいする懐柔招撫工作は、かねてから実施され、停戦協定を結び、彼我の連絡は公然の秘密となっていた。十七年五月、第一軍司令官と閻錫山が直接会見したが、交渉は物別れとなり、暫く対立状態となった。しかし十八年になると妥協の気運が生じ、物資の交流が行われ、部分的な協力が始められた*2

日中戦争期の日本軍第一軍は基本的に山西省の占領地警備を行っている。1942年当時の軍司令官は7月までが岩松義雄中将、8月以降が吉本貞一中将である(参謀長は花谷正少将(1941年12月〜1943年10月))。
岩松義雄軍司令官の下で山西省全域で共産党軍(八路軍)殲滅のための剿共作戦が開始されているが、同時期に岩松は、中国軍第二戦区司令長官であり山西軍閥の閻錫山との日本軍との間の停戦協定と懐柔工作にしくじり、1942年8月に第一軍司令官を解任されている(軍事参議官を経て12月には予備役編入)。

岩松義雄の上奏文(1942年8月)

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13071082300、上奏文(写)(防衛省防衛研究所)」
上奏文(写) 元第1軍司令官 元陸軍中将 岩松義雄

ニ、軍は敵性剿滅の為中央軍に対しては常続的に之を討伐するの外機会を求めて兵力を集結し活発なる殲滅戦を、共産軍に対しては徹底的且間断なき粛正討伐を実施するを以て方針とせり、即ち昭和十六年八月より二箇月間北支那方面軍司令官の計画に基き山西省東北部省境に根拠を有する共産軍に対し粛正討伐を実施し其の根拠施設を覆滅し次いで同年九月下旬より一箇月間山西省中部を南流する沁河河畔に蟠踞せる共産軍の一部及中央軍第九十八軍に対し作戦を実施し共産軍は之を撃砕し中央軍は之を殲滅せり本十七年に入るや共産軍の冬季困窮に乗じ一月上旬より二箇月間山西省全域に亙り粛正作戦を実施し之を益々窖縮に陥らしめ又河北、山西、河南省境地区に於て華北共産党軍の中枢を成しある第十八集団軍並に第百二十九師及南部大行山脈中に於て蠢動しありし中央軍第二十四集団軍並に対し五月中旬より七月下旬迄作戦を継続し共産軍の本拠施設の大半を覆滅し中央軍は之を粉砕せり

「昭和十六年八月より二箇月間北支那方面軍司令官の計画に基き山西省東北部省境に根拠を有する共産軍に対し粛正討伐を実施」というのは1941年8月18日の北支那方面軍命令で「方面軍は北部大行山脈的根拠地に進攻し共産党軍を撃摧せんとす」*3とある晋察冀辺区粛正作戦(方軍晋作命甲第263号)である。参加部隊は第一軍、駐蒙軍、独立混成第一五旅団、第21師団、第110師団、第11装甲列車隊など。
北支那方面軍命令(1941年8月18日) 方軍晋作命甲第8号
北支那方面軍命令(1941年9月2日) 方軍晋作命甲第22号


「同年九月下旬より一箇月間山西省中部を南流する沁河河畔に蟠踞せる共産軍の一部及中央軍第九十八軍に対し作戦を実施」というのは1941年10月の沁河作戦のことで、第36師団などが参加した*4。しかし、沁河作戦では国府軍第98軍の撃破には成功したが、結果としては共産党軍の勢力を拡大させてしまっている*5
「本十七年に入るや共産軍の冬季困窮に乗じ一月上旬より二箇月間山西省全域に亙り粛正作戦を実施」というのは1942年の冬期山西粛正作戦のことで「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070458100、歩兵第224連隊 第3大隊 戦闘詳報 昭和17年5月13日〜17年5月18日(防衛省防衛研究所)」によれば、第36師団歩兵隊224連隊に対し以下のような作戦行動を命じている。

連隊は師団の作戦計画に基き先ず太田、高木両部隊と策応して王河馬壁村付近の敵共産軍を奇襲撃砕したる後引続き東部省境地区の百二十九師を捕捉撃滅すると共に分散配置の駐留討伐に依り敵根拠地を徹底的に覆滅し其の資材物資を剔抉し同地区の徹底的粛正を期す

岩松が第一軍司令官であった1941年から1942年にかけて方面軍規模での粛正(晋察冀辺区粛正作戦)の他、沁河作戦、冬期山西粛正作戦、南部大行山脈粛正作戦と立て続けに粛正討伐が行われている。

1942年5月の南部大行山脈粛正作戦

この討伐の際に、八路軍の副参謀長の左権が戦死している。

1942年5月日本侵略軍は太行山抗日根拠地に対して包囲や掃討作戦を行った。1942年5月25日左権は、山西省遼県麻田付近で部隊を指揮し、中国共産党中央北方局と八路軍本部などの部隊が包囲から突破し移転することを掩護する時、十字嶺での戦闘で犠牲になった。享年37歳。

http://japanese.cri.cn/81/2005/07/12/1@44693.htm

第二十五話 太行、太岳の夏季反「掃討」作戦

 1942年5月、日本軍は3万人余りの兵力で、「鉄壁合囲、捕捉奇襲」などの戦法をとり、太行、太岳の抗日本拠地に夏季の「掃討」を行った。
 5月19日、敵は2万5000余人の兵力で、八路軍本部と北方局があった太行・抗日本拠地の北部地区に対し「掃討」を行った。25日、敵はその航空兵の支援のもとで攻撃を開始した。八路軍本部と北方局機関は部隊の援護の下、3方向に分けて包囲を突破した。この緊急状況下、包囲突破作戦の陣頭指揮をする八路軍の左権副参謀長は、個人の危険を顧みず部隊を指揮し、不幸にして弾に撃たれ、十字嶺で殉死した。
 26日、敵は移動しながらせん滅する戦術に変えた。敵のせん滅を粉砕するため、我が軍は破壊作戦を積極的に展開した。31日、長治にある敵軍飛行場を奇襲し、敵機3機、車両14台、オイルタンク2基を破壊した。これと同時に、敵の後方が手薄であるのに乗じ、虒亭、五陽、黄碾など敵の拠点を襲撃し、大打撃を与えた。地方の武装勢力民兵は平漢、白晋、同蒲や正太などの鉄道沿線で破壊作戦を展開し、内線部隊の反「掃討」作戦に力強く協力した。
 6月9日、日本軍と傀儡軍は、河北省邯鄲と山西省長治を結ぶ「邯長道路」および清漳河両岸地区から南下し、太行南部地区を「掃討」した。八路軍129師団の直属隊および新編第一旅団一部は、敵に涉県南西の石城、黄花地区に追い詰められ、険悪な状況に置かれていた。129師団は夜が明かない内に、4方から包囲してきた敵軍の隙間をつき、包囲網を巧みに抜け出した。敵軍は、包囲計画失敗後、19日後に撤退した。
 太行、太岳の抗日本拠地の軍民による夏季の反「掃討」作戦は38日間続き、敵軍3000人余りをせん滅し、本拠地を守り通し強固なものにした。

http://japanese.cri.cn/782/2014/10/03/142s227419.htm
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20141003/1417881210

*1:「北支の治安戦」<2> 105〜106頁の要約

*2:「北支の治安戦」<2> 105〜106頁の要約

*3:方軍晋作命甲第八号 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C04123328400

*4:http://www.geocities.jp/bane2161/36sidan.html

*5:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13070458100、歩兵第224連隊 第3大隊 戦闘詳報 昭和17年5月13日〜17年5月18日(防衛省防衛研究所)」の大岳地区敵情記載。