上海三友実業公司焼討事件

村井総領事の抗議

1932年1月18日夕方の日本人僧侶襲撃事件*1を受け翌19日午前、日本総領事・村井倉松は市政府に行き、不在の呉鉄城市長に代わって応対した兪秘書長に抗議した。
臼井勝美の「満州事変」によると兪秘書長の対応は以下の通り。

事件発端の曲非がいずれにあるかは不明であるが、中国の領域で中国人が日本人に障害を与えたのであるから、市政府として責任をとるつもりであると語った。

これに対して児島襄の「日中戦争2」では

おそらく、中国側も、自然な印象として『三友実業社』工員の仕業と理解したらしく、翌日、総領事村井倉松が犯人は同社工員である旨を告げて逮捕と処罰を要求すると、「関係者多数なるが故に真犯人は判明せず」と、応答している。

と述べ、田中隆吉少佐の謀略が無くても僧侶襲撃事件が起こりえたと示唆している。
両者の記述は特に矛盾するものではないが、児島氏が取り上げている部分からは児島氏の視点が通俗的な日本擁護に偏っている観が否めない*2。児島氏はこの後に続けて、日本人居留民団内の青年同志会による焼討を描写するのだが、19日午前の村井総領事の市政府訪問から、青年同志会の暴発までの間にもうひとつ述べるべきことがある。

兪秘書長の謝罪訪問

村井総領事の抗議を受けた日の午後、兪秘書長は改めて謝罪のため総領事館を訪問している。兪秘書長はここで市政府を代表して遺憾の意を表明しているのだが、なぜか児島氏の「日中戦争2」にはこの記載がない。
中国側は18日の僧侶襲撃事件について、翌日には自らの責任を認めた上、謝罪までしているが、それにもかかわらず日本人居留民の青年同志会会員らは19日深夜から20日早朝にかけて、三友実業公司に対して焼討をかけている。
どう考えて横暴の極みだが、これも田中隆吉らの謀略だとされる。

テロ・青年同志会による三友実業公司焼討

1932年1月19日から20日にかけての上海は土砂降りだったという。
光村芳蔵ら青年同志会32人は、拳銃や日本刀で武装し、さらに古新聞と石油を持参するという計画的なテロの実行を目論んで深夜、馬玉山路(現・双陽路)の三友実業社に向かったのだ。
深夜のためか、三友実業社には人気がなく、現場では放火のみを実行した。臼井氏の「満州事変」では中国人はいたのだが「あえて抵抗しなかった」と書かれている。拳銃と日本刀を持った30人以上のテロリストがうろついている状況では隠れるしかなかったとも言える。
放火事件の発生時刻は、「東京兵団 上巻」*3では午前2時半とされている。
放火後、青年同志会32人は喊声をあげて、租界内に引き返した。つまり、馬玉山路(現・双陽路)を南に向かい、東華紡績工場で華徳路(現・長陽路)に出た。

共同租界工部局警察の中国人警官との銃撃戦

青年同志会32人らが東華紡績工場で華徳路(現・長陽路)に出たとき、共同租界工部局警察に所属する中国人警官(巡警)2名に呼び止められている。1月20日午前3時過ぎのことである*4
放火した火の手が見えたかどうかは記載がないが、東華紡績からなら三友実業社の火事が見えてもおかしくはない。さらに深夜3時に30人からの武装した者がうろついていれば不審に思われて当たり前であり、租界警察の中国人警官の誰何は当然であるが、青年同志会32人らは逆ギレして警官を威嚇し、身の危険の感じ逃走した警官2名を交番まで追いかけている。

児島氏の「日中戦争2」では2名の中国人警官がいきなり警笛を鳴らしたかのように書いているが、青年同志会が交番まで追いかけるという大筋では一致している。ただし、交番で3人の警官*5を暴行し負傷させたことについては書いておらず、拳銃を奪って川に捨てたとのみ記述している。
その後、東華紡績工場から華徳路(現・長陽路)を西へ50mほど行ったところで交わる臨青路付近まで来た青年同志会らは応援に駆けつけた別の2名の中国人警官と乱闘になり、警官1名を射殺、残る1名に重傷を負わせている。青年同志会側も柳瀬松十郎*6が射殺され、北辻卓爾、森正信の2名が重傷を負った。

30人が武装し徒党を組んで深夜、民間工場に放火した挙句、出会った4、5名の警官らに銃撃、暴行を加えるなど、およそ一般人のやることとは思えない。青年同志会は、上海日本人居留民らの中の右翼団体大陸浪人在郷軍人の類であろう。

光村芳蔵ら青年同志会の自首?

日中戦争2」では、銃撃戦後の午前4時に光村芳蔵ら青年同志会が総領事館に自首をした、と書いている*7
これは色んな意味でおかしい。

まず、三友実業社に対する放火に関してなら租界外の事件なので上海市政府の警察に自首すべきだし、共同租界工部局警察の警官殺害に関してなら工部局警察に自首すべきだろう。
放火事件についてなら、治外法権を適用して日本総領事に自首するというのもあり得るが、一般的には治外法権を利用して本国に守ってもらうための口実と解釈すべきだろうし、「日中戦争2」の続きのくだりを見ても放火事件に対する自首でないことは明らかである。

村井総領事は、事件を工部局につたえ、被害者の中国人巡捕に見舞金をおくる用意がある旨を述べたが、日本人居留民たちは、「青年同志会」の行動で一段と興奮度を高めた。

児島氏の「日中戦争2」の記載からは日本人は誠意ある対応をしているかのように見えるのだが、租界警察警官殺害事件に対する自首なら、工部局警察に対する自首でなければおかしい。工部局警察には日本人警官もいるし、何よりも事件現場の臨青路からなら、総領事館よりも楊樹浦地区の警察の方が近いのだ。
光村芳蔵ら青年同志会が日本領事館に出頭したのは、工部局警察の警官を殺したことにより工部局警察につかまることを恐れたためで、要するに日本領事館に逃げ込んだというのが正解だろう。
租界の外でいくら中国人を殺しても事件にはならないが、租界の中で工部局警察の警官を殺したとなれば事件とならざるを得ない。村井総領事が「被害者の中国人巡捕に見舞金をおくる用意がある旨を述べた」のは事件のもみ消し工作に過ぎない。

そして、租界の外にあった三友実業社に対する放火事件はうやむやにされたのである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101106/1289048573

*2:この記述を真に受けて「日本人居留民「上海青年同志会員」32名が「三友実業社」に対し抗議を行うも、激昂の余り同社に放火」などと主張する無責任な論者まで現れる始末。深夜2時ごろに工場に抗議しに行くというバカバカしい妄想に過ぎない。http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26760400.html

*3:畠山清行、P233

*4:日中戦争2」P177、同書では日付が1月27日となっているが誤記であろう。

*5:1名は元々交番内にいた警官か?

*6:満州事変」P151の記載。「日中戦争2」では簗瀬松十郎、「東京兵団」では梁瀬松十郎となっている。

*7:P178