日本報道に見る1939年7月頃の河南省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071)
大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6)

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北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6)

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(3) 河南篇 民衆、大地に蘇る 農産既に事変前突破へ
北支五省の南端河南省は、省の一半予南、予西の各地区に国共敗残軍の蟠踞を見ながら、予北、予東の両地区は、皇軍の庇護下に治安急速に回復し、皮肉な対照を展開しつつ、いまや東亜新秩序建設の具体的建設工作期に入っている、かつては魏、後梁、晋、漢周、宋が相ついで覇を唱えた河南の地は、事変前の人口三千九百万と数えられたが、いまやこの省の約三分の一の地域を占める予北、予東の地区先ず戦火の中から立ち上って高らかに河南更生譜を奏でつつ新秩序更生へと邁進しているのだ(注−予は河南省の別名)

行政の枢軸河南省公署(旧自治政府)は、今春京漢線の彰徳から隴海線開封に移転した、行政の復活は、県政の施行と鎮、保甲制度の確立で、すでに県長を据え県公署が設置されて、県政を布き初めたもの、予北十七県のうち八県、予東二十五県のうち十四県に達している、皇軍各機関の指導を受けて、現在省公署を統率している省長は彰徳出身の陳静斉氏、かつて四洽銀行の総務として河南財界に重きをなした人材だ、呉佩孚将軍とも親交ある親日家である、参議に楊纉臣、民政庁長に胡継芳氏を据え、治安第一主義のスローガンの下に、伝来の悪政と旱害その他の天災によって、窮乏化にあえぐ河南民衆の安居楽業実現に、全力を捧げている、悪軍閥に苦しめられた民衆だけに、子供に至るまで「蒋介石大不好、日本很好」と口を揃えて話しかけるほどだ

経済的に見た河南は農業が九十九パーセントで圧倒的、鉱業は彰徳附近に約二億トンの有煙炭、焦作鎮附近に約三億トンの無煙炭をもつに過ぎない、農村副業たる加工業も貧弱だ、商業も省都開封を除いて将来の発展性が期待されるほどのものはなく何といっても農産物である小麦と棉、これについで落花生、桐材、豆油これらは北支農産の主流をなす、この種の農産物も、事変前までは、その約七〇パーセントが上海、三〇パーセントが天津、漢口の市場に向けて取引されていた、従って北支とはいいながら、河南の経済は、中支によってより左右されていた、ところが事変を契機として、かかる経済情勢も一変し、今日河南は完全に北支経済ブロックの一環として、その経済機能を発揮しつつある
数千年来、大地を唯一の相手として生きて来た支那農民の底力は、測り知れないものがある、農産物の生産額等も、事変前を乗り越そうとしている、皇軍各機関の指導による棉花、炭鉱、製粉、製油、電灯等の軍管理工場は、河南の産業開発に一エポックをつくるであろう

河南は支那古代文化の発祥地だ、かつては孔孟の哲学を中心に、学者文人を多数に出したが、最近は頗る低調となり、建設的文化は地を払った、開封にある河南大学の如きも米人経営の下に抗日へ抗日へと走っていた、事変後、治安の回復とともに各学校の開設が第一に行われ東亜新秩序運動が全面的に押進められた、省公署では、宣伝室をおき、政治をも含めた新しい建設文化の普及に乗り出している、建設文化に拍車をかけるのは、邦人の進出だ、開封、新郷の如きすでに三千を数え、各部落進出の邦人を合せると、一万に近いであろう、開封、新郷、彰徳では、食料品、雑貨、旅館、料理店等によって立派な日本人町が形成されている、勿論、日本人小学校も開設され、永住設備も生れて来た

[図表あり 省略]


最後に軍事方面を一瞥しよう、国共軍の抗日戦線は、隴海沿線の鄭州から西方陝西省境の滝関に至る線に配置され、皇軍の南下に備えると同時に、南部山西省方面への攻勢進出と遊撃戦の根拠地として利用しているが、鄭州、洛陽の線は、今春来わが陸鷲の猛爆下に、大半の拠点は壊滅、国共軍は全く戦意を失い、転々拠点を換え、皇軍の攻撃から逃避するに汲々としている、国共軍内部の軋轢も激化して来た、これに対し、皇軍は、大黄河北岸の予北、予東地区を確保し、いわゆる四月、五月の敵攻勢を撃砕以後は、治安急速に進展、予東地区の如きは、すでに敵影を見ず、予北地区も、今春から数度の大掃蕩戦によってわずかに大行山脈と大黄河北岸西部に潜在する敗残兵を見るに過ぎない
特に一言せねばならぬことは、呉佩孚将軍の蹶起を待つ綏靖公署の活動である、同公署の手によって開封を中心とする剿共軍の組織も著しく進展し、さらに帰徳には張嵐峰中将を軍長とする剿共軍約五千が皇軍に協力、治安確保に任じている、かつては軍閥の抗争中心地として苛斂誅求に責められた民衆も、今や自ら自衛組織を持つに至った、紅槍会、平会その他の自衛民衆団がかくて実現した、河南はいま、皇軍の庇護下に興亜協同体としての新河南建設へと飛躍の一歩を踏み出している(開封にて佐藤特派員)

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