日本報道に見る1939年7月頃の河北省の状況

新聞記事文庫 中国(18-071)
大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6)

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北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6)

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(2) 河北篇 驚異的な治安回復 豊富な土産、開発進む
「北支の建設は河北省から……」これは北支の建設を語る一般の常識だ事変第三年に入りった河北建設の実情は如何、昨年の今ごろ、わが軍の確保していたのは天津、北京等の大都市と鉄道幹線およびこれに沿う小都市、小部落に過ぎなかった、いわゆる点の治安であり線の確保に止まっていた、現在河北省政府の所在地たる保定県城すら、昨年末まで、毎夜のように敵襲があったのを思えば思い半ばに過ぎるものがあろう然るに今日はどうか、わが粛清工作は昨冬以来急速度に進展した、治安確保区域は、鉄道沿線から遥か奥地へと伸びて、現在は西方山岳地帯に、八路系の共匪を封じ込み、一方平地方面もその一隅に、少数微力の敗残匪が余喘を保って分散しているに過ぎない、この治安工作の進行を端的に数字で示せば次の通り

[図表あり 省略]

然も運転回数がウンと激増している一方には襲撃の人数も方法も極めて小規模、微弱となった、わが方の損傷も殆ど皆無
実に驚くべき急速な治安進行振りであろう、そして六月一日からは、京漢線に夜間運転が開始され、旅客は寝台車で快適な河北縦断の旅が出来るのだ、かくて河北の建設工作は完成に近いレールの上をまっしぐらに驀走しつつある

[図表あり 省略]


省政治の中枢機関たる省公署はここだけで八百名の大世帯、省長呉賛周氏は河北省正定県の人五十四歳の働き盛り、日本陸軍士官学校第二十一期生、かつては支那陸軍の中将まで昇り、蒋介石の北伐軍に抗して一戦を試みたこともあったが後感ずるところあってか潔く剣を捨てて郷里にかくれ、十年間百姓をつづけた珍らしい硬骨漢である、現在省内百三十一県中、知事の任命されていないのは僅かに二県、これも事実上住民はおらず、将来は隣接県と合併されるともいう、八路系共匪の好んでとる清野政策−退却に際して城壁を毀ち、井戸を埋め人民を強制連行する戦法−により、わが軍の占拠地には、まず一物も残されていないのが常であるが、宣撫工作の徹底は、漸次逃避住民を呼び返し省公署最近の調査によると、人口は各地とも大体事変前の状態となり、中には却って増加したものさえ三十一県の多きを数えている

事変前数年間にわたる経済恐慌、洪水、旱魃等の天災、南方財閥および外資による植民地的搾取、抗日意識に基づく意識的な怠業化等により、河北に埋まる豊富な資源も徒らに死蔵され、農民粒々の苦心もまた軍閥の誅求に水泡に帰していた、そこへ、さらに今次の戦禍である、しかし今や彼らは立ち直った、最近における産業方面の復興振りを一瞥しよう
何といってもまず棉花だ、河北の棉花はその年産、北支の首位にあり、西河区(在来棉、省内西南部平地地帯)御河区(御河棉、津浦線一帯)東北河区(米系、京山線以北、長城以南)に三大別され品質極めて優良、素晴しい成績で日満支ブロック経済圏内で最も期待し得べきものの一つ、天津紡績工業の主要原料は、即ちこの河北棉花である、鉱業方面も日支合作進行によって著しく復興、さらに進んで新資源開発へと手がさし伸されている、炭鉱としては周知の開●、井●いずれも操縦を開始しており、その他門頭溝、正豊、柳江、長城、恰立、臨城の各炭鉱とも、目下増産計画の一路を辿っている、満洲国境附近の遵化に住友系の華北採金公司が設立されたのも、異色あるものとして注目されてよい
さらに渤海沿岸の豊財、盧台の二塩場を中心とするいわゆる長盧塩がある、あまりにも有名なこの塩場は事変前、軍閥が生産制限のため馬を駆って塩田を馬蹄にかけ、蹂躪して価格を吊り上げたといういわくつきのもの、それで農民はベラ棒に高い塩を買わされたり、どうしても買えない連中は田畑に吹き出た塩分をなめねばならなかったという大変な塩田だがそれも今やわが興中公司の手により、日満支を結ぶ近海塩増産五ケ年計画が樹立され長盧塩は六十万キロの増産という
事変前天津を中心に殷盛を極めた製粉、紡績、毛織、絨氈、化学、油類、漆類、石鹸、蝋燭、製紙、皮革等の各種工業、これもその大部分が、事変前を遥かに凌駕する活況だ

交通関係で、見逃すことの出来ないのは、夥しい自動車網の発達だ、その工事の敏速は内地では想像もおよばず、すべてこれ皇軍勇士達の血みどろな努力の結晶である、今省内を縦横に突っ走るバスはどれもこれも支那良民を乗せて大満員だ、無言の宣撫は皇軍将士の血と汗の結晶によって偉大なる効果を挙げつつある、この自動車網が産業復興に寄与したところ、蓋し測り知れぬであろう、政治文化に対する河北省民の関心のレヴェルは非常に高い、従って抗日思想や共産主義の浸潤度も深かったが、その代り分りも早い、悟ればその瞬間から、彼らの胸中、抗日意識は払拭し去られて、興亜の新事態は、彼らの認識によって来る敢て多言を要せず、無言の現実工作こそ、最大の宣撫である、河北省は今素晴らしいスピードで建設の道程を走っている

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データ作成:2003.10 神戸大学附属図書