黄阿桃の証言
http://www.awf.or.jp/pdf/194-t1.pdf三 原告 黄阿桃
1 連行まで
原告黄は、一九二三年二月六日台湾省桃園県の観音郷で生まれる。家は貧しく生後すぐに他家に養子にだされるが、七歳か八歳のころ両親が再び引き取り、家で炊事・洗濯や弟妹の面倒をみて暮らす。学校にはいけず、読み書きは出来なかった。一八歳のとき家をでて、台北市の写真館に住込みで勤め、炊事の仕事(当時の言葉で飯炊き)をしていた。
2 連行時の状況
一九四三年、原告黄が二〇歳になったとき、住込み先の写真館のすぐ近くの旅館の前に「南洋で看護婦として働きたい人は申し込んで下さい」との貼紙があった。桃園出身の友達aがこれを読んで教えてくれた。友達は既に申し込んでいて、一緒にいかないかと進められた。しかし、原告黄は読み書きも出来ないため躊躇していたが、受付で話を聞くと、炊事でもいいからといわれ、また六カ月で帰れるということでもあったので、これに応募することとした。貼紙のあった旅館で受け付けもやっており、「KAKI」という男性と四〇歳位の女性(ともに日本人)がいた。何日何時その旅館に集まれと指示され、且つ戸籍謄本をもってくるように言われた。丁度旧歴の正月であったので、一旦実家に帰り、母親にはその旨を話した。正月明けに集まり、他の女性達も含め高雄に集合した。一緒にいった女性の中ではaとb(基隆出身)が知り合いであった。全部で二三名位の女性がいた。ずっと、前述の「KAKI」と四〇歳位の女性が現地まで一緒だった。高雄から「浅間丸」という大きな船にのせられ、まずマカッサルに到着し、ここに一週間位いた後、別の船に乗り換え再びバリクパパンまでいった。上陸後トラックで一時間位の山中の航空隊の基地に連れていかれた。上陸して一週間位の中に爆撃があり、女性二名が死亡し原告黄も怪我をした。この時の怪我がもとで片方の目が失明した。
3 「慰安所」での状況
現地は、基地の外側に椰子の葉で作った建物があった。弾薬の空箱を使って床を張りその上に軍用の毛布を敷いてあった。中は二〇数部屋あり、一人一室が割り当てられた。建物のまわりに囲いは無かったが、周りは山ばかりの地であった。到着して数日後、建物の管理人(一組の日本人夫婦)が女性を集合させ、「軍人の慰安をしろ」といった。初めて性的行為をさせられることを知って、女性らはこの管理人に殴りかかったが、「看護婦はそんなに大勢必要ないから、お前達は軍人の慰安をしにいけ」と言うのみであった。原告黄は震えが止まらず手は氷のように冷たくなったが、応じるしかなかった。山の中であり、帰る船も沈めるとまで言われ絶望的な気持ちであった。最初のとき、原告黄の札を買ったという軍人がきて原告黄の名前を呼んだ。原告黄が拒否すると、「お前がここにきたのは軍人を慰安する事なんだ、同意しない事などできるものか」と言われ、どうせ死ぬしか無いのならとの想いで泣く泣く応じざるをえなかった。原告黄はこの時が初めての性行為であった。
以後、一日に二〇人から三〇人の相手をさせられた。管理人の妻(女性たちはやり手婆と呼んでいた)は「御国の為に」が口癖で、帰国するときに纏めて金を払うといっていたが、結局一銭も貰うことは無かった。あるとき夜中に建物の外に出て歩いていると直ぐに兵隊に何処に行くと誰何され、連れ戻される状態であった。月に一度は基地の中の病院で検査があり、軍医がこれをした。ここで朝鮮人の「慰安婦」と一緒になったこともあり、雑談では、離れたところに朝鮮人の「慰安所」があるとのことであった。外出は月に一度位の割合で軍のトラックで且つ集団で「KAKI」等が付き添ってバリクパパンまで行く事があったが、勿論自由に行くことは不可能であった。4 帰国の状況
一九四五年八月の敗戦と同時に、知らない間に日本軍の兵隊はいなくなり、原告黄らには何らの指示もなかった。途方にくれている時、現地の人間に日本人と思われて拘束され、一週間土蔵用の所に監禁された。必死で台湾人であり無理に日本軍に連れてこられたと説明し、やっと監禁を解かれ、スラバヤに連行された。そこで台湾同郷会の者が台湾人の女性がいると聞きつけて原告らを保護してくれ、同会で手配した宿舎に世話になり、数カ月船を待って帰国することができた。
5 帰国後の生活
帰国後、この経験は母親にしか話せなかった。その後、原告黄は外爆撃時の怪我による片目の失明とその後遺症を持った状態で暮らしているものである。