証言・宋神道
1994年3月、女性の人権アジア法廷。
「女性の人権アジア法廷」、「女性の人権」委員会編、明石書店、1994
宋神道さん。七十一歳で、現在日本にお住まいになっています。「慰安婦」制度の犠牲者のおひとりです。
証言 日本軍国主義の犠牲者
こういう辛いことは、経験された方じゃないとわかりません。日本の軍国主義というのは、ほんとうに嫌なものだったと思います。
私は十六のときに、ある朝鮮人に連れて行かれ、国のために働かなくちゃならないと言われました。国のためっていやぁ何のもんだかって思うだろ。そしたら軍人たちがいくさやってっから、この軍人たちを助けていかなくちゃならないと。それじゃ、どういうふうにすればいいのかと。行けばわかると。それで、無理やり連れて行かれた所が、天津だった。
その天津で慰安所を見に行ったんでがす。そこでおなごたちがみんな日本の着物着て働いてるの。あんたたちもこのようにして働くんだって言われたから、そうか、ええなと思って、それじゃ嫁ごに行くよりええなと思ってついて行ったわけなんすわ。行った所が武昌(注・宋さんは結婚式当夜、親の決めた嫁ぎ先から逃げだし、実家にも帰れずにいたところ、「戦地に行けば嫁にいかなくても稼いで暮らせる」と誘われ募集人にしたがった。天津で慰安所を見せられ、着物を買わされたが、これらの代金、旅費、宿泊費などが借金とされて、武昌の慰安所『世界館』に拘束されることになろうとは夢にもおもっていなかった)。武昌に行ったところね、ここやあっこに中国人が殺されて転がっていても、誰もそれを片づけません。で、私たちが片づけました。ちゃんと背中さ負って、ほいで裏さ行って片付けたんでがす。度胸いいでしょう。こんなおなごいないべや。それより、こんた仕事やるためにやっぱりこのおなごたち連れて来たんだなと思ったわけなんです。ところがそればかりじゃないの。あと、あちこち血が付いてるし、この血も、バケツで水を汲んできて、しっかりタワシで洗って消して。
そうしていたところ偉い軍人たちがワーッと来るわけ。刀は下げてるし。だけども、何をしていいか、言葉も通じないし、何だべなと思っていたところが、兵隊さんの体の相手させるような商売だったかも知れません。ところが言葉、通じない。じゃ、明日んなって検査するってことになったの。何を検査するんだかわかんないの。オッパイの検査とか、身体の検査とか、下の検査とか。下の検査は泣いたの。一回嫁でもいったんならば検査してもいいんだけども。恥ずかしいながら、やだやだって言って体を出してこれ、軍医が下を見ようとしたんだけど、あんまり泣くもんだから、その軍医さんがケツはたきつけて「よし」と。こうなって私、放されたわけ。
さあ、そしたらば今度ね、許可もならないうちに兵隊さんたちが入れ代わり立ち代わり入って来るわけさ。やらせろ、て。何やらせろって言うんだか、わけわかんないべや。しようがないから「何をやらせるんだ」て言ったの。朝鮮語でね。そしたら、肉体関係するんだって。肉体関係やったことないから、どのように関係するんだかって言ったら、ちゃんと兵隊さんの言うこと聞けって。聞いたらなるほど、こういうふうにするのが肉体関係だなって思ったの。言葉は通じない。言うこと聞かなきゃ殴られる。蹴ったぐられる。刀抜いてこう・・・いまでもね、ここの右っかわの背中にね、十五センチの傷があるの。殴る蹴る。それでおれ、いまでもね、耳が遠くなっちゃって、両方の耳も満足に聞えないんだけどさ。
そうしてまあ、どうやらこうやらニ〜三年間はこの武昌ってとこさ居て、たまに「おめえ、慰問に行かないか」って言われたから、「慰問っていうとまた何だや」なんてきいたら、慰問っていうのは武漢大学ってとこいくんだ。武漢大学ってのいうのが、陸軍病院になるわけ。野戦病院だか、陸軍病院だかいった。で、たまに行くと、爪切ったり、それから弾に当たって負傷した方々、手当てしてきたり、そういうことをやってたわけなの。そんでたまには、演芸会になれば歌こ歌ったり。そいで私はそこで、舞台さ上がって、「国の便りの味がする」っていうの一曲歌って、ミシン一台とったことあります。
こういうふうなことしえ、ま、だんだんだんだん日本語通じるようになると、ニ〜三年の内に、今度は部隊づきとして連れて行かれたの。咸寧だとか、岳州だとかな。さまざまなとこ連れて行かれて、毎日のようじゃないんだけども、一日ね、五十人もとったり、八十人もとったりするときもあんの。そうするとね、立ってやらせろだのさ、寝てやらせろだの言うわけよ。そんなことしないとビンタとられる。ほいで巻脚絆脱げって言っても巻脚絆も脱がない。じゃ、どうするかって言ったらね、「裸んなれ」って言うんだね。一人さ裸んなったら、こりゃ他の人間がたまらないべや。ゆっくりしたい気持があるわけだけど、帳場の方ではやかましい。それで裸にならないと、今度満足しないからビンタとる。もう、ずうーっと並ばってんの。この人間たちの暴れまくるとこでは、ほんとにこれ死んだ方がいいんだか、生きた方がいいんだか、それで兵隊さんたちが討伐に行って帰って来ると、また兵隊たちが多くなる。すると一日三十人でもとるし、四十人もとるし、もうほんとにどうしたらいいんだか、わけわかんないのよ。ね。
これほんとにここらにね、軍人の方々が来てるならなおさらいいんだけども、おそらく軍人の方、来てないと思うんだ。おれから見るとね。みんなまだ若い子ばっかり来てると思うんだよ。そういう方々は、戦地にいて、中国さ行ったとかどことか行ったとか言えばこういうなやり方したこと、だいぶわかると思うんだよね。それだから、いま、土井たか子が言ったように、戦争が一番いけないっていうの。ね。戦争が一番いけないの。戦争するからこういうような犠牲が出る。あんな派手な戦争ないよ。毎日好きなほどハメて、好きなほど飲んで食らって、人のことやりたいほうだい切ってぐりつけて、そいで終戦なったんだちゃ。これが二度繰り返されたらどうする?あんたたち。いいかな?兵隊に行けって言ったら行くか?ほいでいま残ってるやつらみな、中曽根だとか、おかしなのばかりいるじゃないの。みな、年とってから。
それで敗戦なって、どうしようもならんときに峯部隊のIっていう人間が、「いやおめえ、こんなとこで居たってしようがないから、敗戦なったんだから一緒んなろうよ」って言われたの。一緒んなろうよって言ったってもわかんないし、「結婚するよ」って。で、結婚するよって言われて、それじゃええことしたなと思ってね、一緒にくっついて引きあげ証明書入れて日本に来たの。でもこの男にも上野駅で投げられた。そのときシラミだらけ。「涙を溜めた渡り鳥」ならいいけども、シラミ抱いた渡り鳥じゃ。シラミべったり抱いて。
それで、死ぬか生きるかって言ってるうちに、宮城県さ行ったある朝鮮人に拾われて、シラミは取ってくれる、温泉は入れてくれる。かわいそうだと。いやあ、これは死んでも忘れない。朝鮮人にもこういうような人間がいたもんだな、と。そいで、この人間に助けられて生活してきたんです。でも、もう生活能力がなくて体がきかねえから、生活保護もらって食ってんの、いまね。うそでねえ。家賃入れて七万なんぼの金。その七万なんぼの生活保護もらって食ってること、みんな近所の方々が白い目で見てて、「おめえ、戦地に居てバケツみたいなべべになった」とか。「おまんこなんか、こんな大きいか」って言ったり。それでとにかくもう、一回二回だらいいけど、ツラ見るたびに言われてごらんなさい。つらいじゃないの。殺せばブタ箱さ入れられるから、殺したくないの。
軍国主義は厳しいんですよ。戦争が負けるようになったらね。自分の腹切って死ねって言われたんだから。おれはそんなばかなまねして死にたくねえもの。なるべく生きた方がいいと思って。それで、このIに放されて、Kっていう人間に拾われて、それで助かって四十九年日本に生きてる、いま。
戦争が悪いの。人間が悪いんじゃないのよ。戦争するからだめなんだ。意地でもやめたほうがいい。戦争するからこういうことになる。だから、戦争してこういうような犠牲になったことを、日本政府が頭に叩きこめば二度と戦争しないんだけど、そんなこと考えてないでないの。いま、国会中継だって何だって見てごらんなさい。みんな金取るばっかりじゃないの、あんた。ふところばかりいれっぺえとして、あれじゃ政治になりません。あんなことが政治だらおれでもできるよ。冗談じゃないよ。フチャクラフチャクラって喋って、また金取るだけだべ。
かわいそうなのはわれわれが一番かわいそうなの。何のために兵隊の、軍隊の相手をさせられたのか。だからいまね、私はこうやって宮城県に住んでるけれども、みんなが白い目で見ないようにしてれればな。おれ、安心して暮らしていける気持ちがあるわけじさ。世のなか金いるよ。でも、死んだらしょってけないんだよ。なんぼ金あったって。だから金の問題じゃないの。
だからみなさんもね、この人間の顔覚えて、「ああ、この婆の言ってることが間違いないな」と思ったら覚えてもらうべし。もし、あんたたちな、おなごだら、従軍慰安婦に連れて行かれるかもわかんねえ。うそでねえ。何でよその国のおなごまで連れて行かなきゃなんねえの。そうでしょ。そんなばかなことするから戦争負けるの。おれは実際に体験してきて言うんだからまちがいありません。
(125〜132頁)