2011-01-01から1年間の記事一覧

鳥取地震

発生日時 1943年9月10日午後5時37分 犠牲者数 1943年9月14日正午までに判明した犠牲者。 男女別 程度 男性 女性 合計 死者 354人 651人 1005人 重傷 282人 376人 658人 軽傷 1204人 1222人 2426人 地域別 程度 鳥取市 気高郡 東伯郡 岩美郡 八頭郡 合計 死者…

民国日報に記載された三友実業社襲撃事件

二〇日の朝、日本人のいわゆる浪人七〇人余りが先導し、その後から陸軍のタンク四輌が三友工場に向った。途中、制止しようとした公共租界中国人巡査田潤生を殺害した。また通報しようとした中国人巡査朱伍蘭の頭部を刺し、手指を断ち切った。さらに駐在所に…

「武漢撤退にあたり全国軍民に告げる書」

中国軍の武漢撤退後の1938年10月31日、蒋介石は「武漢撤退にあたり全国軍民に告げる書」を発表した。 武漢を防衛する軍事作戦の主要な意義は、敵の西進を遅滞させ、敵軍の戦力を消耗させ、その間に後方の交通を整備し、必要な武器を輸送、集積し、わが国東南…

「蒋介石秘録」での浙贛作戦に関する記載

「蒋介石秘録14 日本降伏」 報復と称し、中国に無差別爆撃 浙江省に残る飛行場を占領するため、日本軍は上海に司令部をおく第十三軍を中心に、十万の兵力を杭州から奉化にかけて展開、五月十五日(一九四二年)。臨時省都の金華に向かって進撃をはじめた、…

「日中戦争がよくわかる本」(PHP文庫)での浙贛作戦に関する記載

中国に向かった爆撃機は大半が浙江省の飛行場をさがしだして着陸した。なかには日本軍につかまったパイロットもいた。 日本軍は、こんな離れ業を二度と起こさせないように、浙江省内の飛行場をつぶす作戦をおこなった。それが浙贛作戦である。浙は浙江省、贛…

綏遠事件の推移

綏遠事件に関してはネット上には情報が乏しく、Wikipediaなどは例によって「内蒙古独立戦争」という歴史修正主義な中途半端な記載となっている。事件の時系列について詳細に述べているものは少ないので、簡単にまとめておく。関東軍を後ろ盾にした徳王は1936…

南京路事件(1937年12月3日)

上海が陥落して約一ヵ月後、日本陸軍は上海租界内で示威行進を強行した。アメリカは租界内での行進を止めるよう外交ルートで日本に求めたが松井石根軍司令官の強い希望により斥けられた。参考:クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件…

北支那方面軍第十二軍独立混成第五旅団独立歩兵第19大隊第1中隊の討伐時編成例

山東省に駐留した第十二軍麾下の独立歩兵第19大隊第1中隊が1943年1月7日から実施した討伐における編成。 指揮班 8人 班長(軍曹クラス) 重機一個分隊 11人 分隊長(伍長・軍曹クラス)、銃手4名、弾薬手4名、馭兵2名*1 二個小隊 約60人 1個小隊約30人*2 県…

通州事件時の日本軍守備隊兵力

部隊名 長 広中一成の記載*1 寺平忠輔の記載*2 通州兵站司令部 辻村憲吉中佐 2人 - 山田自動車部隊 山田正大尉 53人 50人 通州警備隊 藤尾心一中尉 49人 40人 通州憲兵分遣隊 松村清准尉 7人 (その他合わせて)20人 病馬収容班 - 5人 - 野戦倉庫員 - 2人 - …

通州事件犠牲者の状況

日本総領事館警察通州分署の事件直後の調査によると、1937年7月29日の通州事件における犠牲者は、内地人*1208人中114人死亡、鮮人*2213人中111人死亡、合計で225人が死亡している。 この他に、支那駐屯軍麾下の通州守備隊や憲兵隊があり、事件当時通州にあっ…

支那駐屯軍の増兵

1936年4月、日本軍はそれまで歩兵10個中隊(北京:2個、天津:8個)、砲兵1個中隊、工兵1個小隊の約1770人だった支那駐屯軍の兵力を約3倍に増強することを決定した。日本軍にとっては、中央を無視する傾向の強い関東軍の華北工作を牽制するため支那駐屯軍を…

通州城新南門外 宝通寺の戦闘(1937年7月27日)

日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の首都・通州は北京の東方約10キロにある小さな都市である。通州は1935年の塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の境界線上に位置し、城内及び城外南東部には冀東政府保安隊が駐屯しており、城外南西部の宝通寺には冀察…

通州事件の報道

通州事件とは、1937年7月29日に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府所属の保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊及び冀東政府関連施設を攻撃した事件を指し、その際日本人居留民にも多くの犠牲者が出ている。 事件直後の8月には、日本陸軍は通州事件をプロパ…

Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘

Wikipediaの「塘沽協定*1」のページには山海関事件に関する項目がある。 1933年1月1日〜3日の第三次山海関事件の発端については、日本軍守備隊長落合甚九郎の陰謀説が有力である。そして、この事件により山海関城を完全に抑えた日本軍は、直後に始まる熱河侵…

児島襄による第一次山海関事件の記述

第一次山海関事件について記述した資料はあまり見当たらない。 児島襄の「日中戦争2」でもわずかに以下の記述があるのみである。 山海関では、じつは前年*1の十月一日に、「天下第一関」の扁額をかかげた城門に日本側警察隊員がのぼって射殺された事件、十…

第三次山海関事件についての記述

1933(昭和8)年 山海関事件。 山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。山海関(万里…

第二次山海関事件の概略

「山海関事件」は、1933年1月1日に起きた日本軍第8師団による山海関占領事件*1がよく知られているが、これは第三次山海関事件とされる。 昭和七年十月一日、山海関において、満州国国境警察隊員と中国軍兵士との間で紛争が起こった(第一次山海関事件)。こ…

第一次張北事件に関する陸軍省の主張

陸軍省新聞班が1935年7月30日に発行した「北支事件及宋哲元軍不法事件に就て」に第一次張北事件の記述がある*1。 二 第一次張北事件 昨昭和九年十月、支那駐屯軍の幕僚*2及領事館員等数名は、内蒙地方の旅行を企図し、護照*3等を準備したる上旅行先各地出先…

通州事件に言及した書籍

通州事件は、1937年11月29日午前2〜4時*1から開始された冀東防共自治政府*2所属の保安隊の反乱に伴い発生した通州在住の日本人・朝鮮人に対する暴行・殺傷事件である。 歴史修正主義者の中村粲や東中野修道によって未だに反中プロパガンダとして利用されてい…

「東京兵団」における綏遠事件の記述

畠山清行の「東京兵団 上」(光風社書店、昭和53年8月30日発行、P74-75)には、綏遠事件の記述がある。 昭和十一年十一月、関東軍の田中隆吉参謀は、兵を率いて(これは正規の軍ではなかった。在郷志士や、満鉄社員なども、相当加わっていたようだが・・・)…

大山事件に対する石射猪太郎の感想

1937年8月10日の石射猪太郎日記に以下の記載がある。 8月10日 ○川越大使高宗武と会見、打診したのはよけれども船津を阻止して高との話をはぐらかしてしまったのは誠に遺憾だ。スキを見せねば打ち込んでこぬ、その工作のためにやった船津だったのに。 ○昨…

クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件

歴史修正主義者である東中野修道が「南京「虐殺」研究の最前線」で、南京大虐殺否定論に利用したクロード・ファレールの記述であるが、同様の記述は「アジアの悲劇」(1939年訳)にも存在する。 東中野修道が利用した東亜同文会調査編纂部の雑誌「支那」は、…

蒋介石秘録に記載された南京事件

1976年にサンケイ出版から出版された「蒋介石秘録12日中全面戦争」は、出版の前年1975年に死去した蒋介石の伝記である。蒋介石の自述などを基に構成されている。 出版の目的としては、日本国内における反中プロパガンダが考えられる。国連での代表権を失い…

東北地方の国民党軍・共産党軍の対峙

岩村三千夫の「中国革命史」(青年出版社、1968年11月30日初版、1973年4月30日第2版)に以下の記載がある。 ところが国民党は、四六年三月はじめにソ連軍が瀋陽*1から撤退すると、まっていたとばかりに瀋陽とその周辺を占領し、四月はじめまでに約二八万の大軍…

大山勇夫中尉事件は死を覚悟した挑発行動?

こういう話がある。 開会挨拶をした早稲田九条の会代表委員武藤徹さん( 83歳・元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第三部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として昭和20年5月3日から8月15日ま…

クロード・ファレールによる大山事件「証言」の誤り

クロード・ファレールが大山事件の現場を取材していないことは以前指摘したとおり。クロード・ファレールは大山事件から6ヶ月後に来日し、日本政府の計らいで1938年の朝鮮・満州・中国を訪問している。 著名な作家を招待し、大名旅行で接待し、日本の正当性…

大山勇夫中尉と斉藤与蔵一等水兵の死体検案書と死亡時の状況

大山事件の翌1937年8月10日に、日本海軍軍医少佐有馬玄と中国の法医学者孫達方が作成したと言う死体検案書が、児島襄の「日中戦争」に記載されている*1。 一、死亡者の氏名 大山勇夫 一、死亡の原因 他殺 (頭蓋骨粉砕骨折、左前胸部刺殺傷、左前胸部射傷、…

クロード・ファレールの略歴

葦書房より1991年に発行された「戦闘 La Bataille」の訳者である野口錚一による解説にクロード・ファレールの略歴が載っている。*1 ファレルの生涯 クロード・ファレル、本名フレデリック・シャルル・ボルゴーヌ Frèdèric Charle Borgoneは一八七六年フラン…