第一次張北事件に関する陸軍省の主張
陸軍省新聞班が1935年7月30日に発行した「北支事件及宋哲元軍不法事件に就て」に第一次張北事件の記述がある*1。
二 第一次張北事件
昨昭和九年十月、支那駐屯軍の幕僚*2及領事館員等数名は、内蒙地方の旅行を企図し、護照*3等を準備したる上旅行先各地出先支那官憲に予報する等万般の処置を了り、十月二十七日張家口出発多倫に向った。
然るに、一行が張家口北口約三十五粁*4の部落張北の何門に到達するや、同地に駐屯してゐた宋軍第百三十二師の衛兵及保安隊員は、青龍刀、自動小銃等を擬して、理不尽に一行の通過を阻止した。
茲に於て、一行は懇々説明したが遂に要領を得なかったので、領事館の一書記生は単身公安局に至り説明せんとして数歩前進した所が、件の衛兵司令は直ちに書記生を殴打し他の控兵は之れを取巻き発砲の姿勢を執り発砲せよ等と叫び、暴逆の限りを尽くした。然るに此間に一行の認めた公安局宛の手紙によって漸く支那将校が現場に来たので、一行は事なく多倫に向って前進を継続したのであった。
本事件は、支那側の命令が徹底しなかったのに因る様であるが、何れにせよ護照を所持する邦人旅行を拒否した事及帝国外交官を殴打した事は、見逃すことができないので、我が軍部及外務当局は宋哲元の参謀長張維藩及外交部弁事処岳開先を招致し厳重なる抗議をなし、彼をして謝罪せしめた外、特に多倫、張家口間の交通を自由ならしむること等を要求し之を承認せしめたのである。
多倫、張家口、張北はいずれも察哈爾省の地名であり、当時の主権は中華民国に属していた。
しかし、1933年の熱河作戦後、関東軍は李守信軍を察哈爾省の多倫に侵攻させ、9月には察東特別自治区を成立させた*5。これを察東事変という。
1934年当時、察哈爾省の東部は関東軍の傀儡である李守信軍の支配下にあり、中国国民政府に反抗的な態度をとっていた。
察哈爾省の都市・張家口から、反乱軍まがいの李守信軍の根拠である多倫へ、李守信を唆している日本軍の将校が行くことは、もちろんただの旅ではない。現地の中国軍であった宋哲元軍が警戒するのは当たり前の話であり、日本軍の要望は横暴と言える。