クロード・ファレールの略歴
葦書房より1991年に発行された「戦闘 La Bataille」の訳者である野口錚一による解説にクロード・ファレールの略歴が載っている。*1
ファレルの生涯
クロード・ファレル、本名フレデリック・シャルル・ボルゴーヌ Frèdèric Charle Borgoneは一八七六年フランスのリヨンで生まれた。一八五〇年生まれのピエル・ロチより二十六歳ほどの年少である。ロチと同じく海軍に入り、士官としての余暇、やはりロチと同じように小説を発表しはじめる、処女作は一九〇四年の、「阿片の煙」であり、その後、「文明人」「暗殺者」そして、「戦闘」と続く。「文明人」はインドシナ、「暗殺者」はトルコのイスタンブール、「戦闘」は日本の長崎と、いずれも舞台を問うようにとり、文明批評と東洋と西洋との対立を主題にしたものである。その経歴、作風からしても、明らかにロチの系統を受けついだエキゾティスム文学の作家であり、彼自身、ロチの研究家、後継者をもって任じていた。ロチが生前あれほどの賞賛をかちえていながら、現在の文学史上の評価があまり高くないのと同様、ファレルもまた一九三五年、作家としての最高の栄誉であったアカデミー・フランセーズの会員に選ばれていながら、今日ではほとんど忘れられてしまったようである。
その理由として考えられるのは、やはり作品がエキゾティスムという時代の風潮に大いに左右される、いわゆる際物的要素が多かった事、しかもロチの後を継ぐものというのであれば、ロチの作品が日記や手紙の一節を並べたような抒情性の濃いものであり、ファレルはより劇的にとらえているという相違はあっても、どうしてもロチの亜流という感じは否めないのであろう。もう一つの理由は、彼の軍人としての経歴からくる思想、感情の面にあったのではなかろうか。「アジアの悲劇」を読めば判る事であるが、第二次世界大戦の始まる前夜、日本を訪れた彼は、時の日本政府の要人、近衛首相*2、広田外相*3、杉山陸相*4、米内海相*5等に会見して意見を交換している。その後、朝鮮から旧満州国、さらに北京へ赴いて、植田元帥*6、寺内大将*7等にも会っている。その間の事を記した「アジアの悲劇」の中には、日本の明治以降の行動を是認するような口吻がみられる。第二次大戦に於ては、日本とフランスは戦った訳であるし、その敵国「日本」の理解者としてのファレルの事跡などは、戦後のフランスのレジスタンス文学、実存主義文学のうねりの中ではうたかたのごとく消え去ってしまったのであろう。ファレルは一九五七年(昭和三十二年)八十一歳で亡くなっているが、その晩年は多分さびしいものだったに違いない。
白水社の「フランス幻想文学傑作選3 世紀末の夢と綺想」には、クロード・ファレールの「静寂の外」という短編が所収されている*8。これにも、訳者の秋山和夫が解説をつけている。
解説 クロード・ファレール(一八七六−一九五七。リヨン生まれ、本名フレデリック・シャルル・ボルゴーヌ Frèdèric Charle Borgone)は一九一九年まで海軍に士官として在職しながら、主として近東、アジアを舞台とする小説を発表して注目されていた。このことから、すぐにピエール・ロチ(一八五〇−一九二三)が連想されるが、事実、ファレールはロチに私淑し、その没後にはロチとの交友の回想を交えた出色のロチ伝を書いている。日本にも日露戦争中およびその後複数回来ており、日本海海戦に取材した『戦争』(一九一九)などの作があるが、一般には、ゴンクール賞を得た『文明人』(一九〇五)を挙げるべきだろう。
資質的にはおそらくロチにかなり近かっただろうが、しかしファレールは第二のロチとはなりえなかった。二十六年という二人の年齢差にある時代状況の変化は、ファレールの<<異国趣味>>が、ロチにおけるヨーロッパ的健康さで近代の抒情性やロマンチスムと結びつくことを許さなかったと言えるだろう。
ファレールの<<異国趣味>>が幻想の系列へと転進して行くのも、いわば自然だったのである。ここに訳出した『静寂の外』は短編集『阿片の煙』(一九〇六)所収のもので、阿片中毒者の狂気と正気の交錯する独白の中に浮上する幻想性を狙ったものである。以後、ファレールにとっての<<異国>>とは、この世ならざる別世界、異次元の世界となってゆく(短編集『別世界・異世界物語』[一九二一]の表題は象徴的)のであり、サン・ジェルマン伯伝説を巧みにあしらった長生不死テーマの『生者の家』(一九一一)やマッド・サイエンティストものの『惑星の最後』(一九二七)などSF的世界への接近も、その意味で新しい<<異国>>の発見だったのである。
薩摩治郎八によるファレール評が、自叙伝「せ・し・ぼん わが半生の夢」に載っている*9。
マルセーユで仏郵船に乗ったら、丁度日本に行くという仏蘭西翰林院会員フロード・ファレール老*10と会い西貢*11まで彼と同船した。ファレールとは古いつきあいの間柄だったが、この航海中、私は、彼がほんとうに日本と日本人が好きでどうにかして中日間の問題をお互いの顔が立つように言論の力で解決出来ぬものかと心痛していることを知った。彼は右傾の思想を持った人物だが、飽迄も独立的な非コンフォルミスト*12で当時の独伊に対しても日本に対するのと同様な考えを持っていた。不幸第二次大戦が起ってしまった後は、一切筆を捨てて、バスクの閑居に立篭ってしまった。彼の仲間が戦後、独伊に協力したかどで挙げられたり、殺されたりしたが、彼のみは全く何等の非難も受けなかったと云うのは、仏海軍々人の経歴をもった彼が最後まで仏蘭西人として終始したからにほかならない。この態度は私が不幸な時代にとった日本人としての態度でもあったので、私には殊更彼の心理が理解される。だが終戦後、真っ先に当時の反日的仏蘭西の与論を顧みず、堂々と日本に同情的な文章を書いたのは彼とポール・クローデル*13の二人であった。クローデルと彼とでは全く性格が異なってはいるが、日本を愛し、日本人を理解している点では二人とも一致している。
クロード・ファレールは思想的に右傾化していたとあるが、むしろ反共産主義の思考が強かったと見るべきだろう。その方が、1930年代の独伊日、つまりファシズム政権に好意的であったという点についてよく説明できる。
クロード・ファレールが反共産主義に傾注したきっかけであろう事件が1932年5月2日に起きている。
フランス大統領暗殺される
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1932年(昭和7年)5月6日、フランス大統領のポール・ドゥメール(74)はパリのデュ・ルーヴルの博覧会へエリゼ宮から車で向かい、サロモン・ロスチャイルド会館に入ったところを狙撃された。ドゥメールは作家のクロード・ファレールに挨拶に出向いたが、ファレールからサインを貰っていたロシア人の男にいきなりピストルで撃たれたのである。このロシア人の男はポール・ゴルギュロフといい、元共産党員でモスクワからパリに潜入、ドゥメール大統領を反ソの頭目と見なして狙撃したという。ただゴルギュロフは精神的におかしいと思われる部分もあった。ドゥメールは1897年からフランス領インドシナ総督となって功績を挙げ、1927年に上院議長に就任、1931年5月に大統領に当選していた。
http://www.geocities.jp/showahistory/history01/topics07b.html
作家トロワイヤの演説では次のようにドゥメール大統領暗殺事件について述べられている。
1932年5月2日、「復員作家協会」l'Association des Ecrivains Combattants のブックフェア会場で、ポール・ドゥメール大統領が銃撃を受け殺される。犯人は白系ロシア人だった。 トロワイヤは「悲しみと恥と怒り」を感じる。この時居合わせた一人の作家が、大統領を守ろうとして弾を受け負傷した。冒頭で述べられたこの逸話の、負傷した作家がファレールであることは、終わり近くでさりげなく明かされる。
http://opoponax.mo-blog.jp/curiositesphysinomiques/2007/03/index.html
クロード・ファレールの目前で、反ソの頭目と見なされたフランス大統領が暗殺され、自らも負傷した、とあれば、強い反共産主義に傾倒しても不思議ではない。
*1:P269-270
*6:植田謙吉。当時、関東軍司令官兼駐満州国日本大使兼関東局長官。但し、植田は日本陸軍元帥には列せられていないので誤記か、あるいは満州国での絶大な権威を示した表現か。
*8:P191-199
*9:P64-65
*10:クロード・ファレールの誤記
*12:非順応主義者。但し、当時のフランスは政権が安定せず、左派政権が度々成立していることから、クロード・ファレールは左派政権に対して順応しなかっただけ、つまりかなり強硬な右傾派だったとも言える。
*13:1920年代に駐日フランス大使。作家でもある。1943年、ドイツ占領下のパリで、ドイツの同盟国である日本の文化を賞賛した。