傳作義の経歴2

1927年初め、北伐を開始した国民革命軍は、呉佩孚や孫伝芳、張宗昌の軍をことごとく破り北上した。
1927年4月には国民政府内の内紛から北伐が一時中断したものの7月には国民政府から共産党を排した上で蒋介石の主導権が確立し北伐を再開、これを見た閻錫山は奉天派との連合を解消し国民政府に呼応する。1927年9月には国民政府から北方国民革命軍総司令に任じられた閻錫山は晋軍を国民革命軍第3集団軍に改編し、張作霖奉天派への攻撃を開始する。一軍を平綏鉄道沿いに東進させ、一軍を京漢鉄道沿いに北上させる作戦である。
天鎮防衛の功績により第4師師長に昇進していた中将・傳作義もこの「北伐」に加わり、涿州を攻略している。しかし他の北方国民革命軍は奉天軍に散々に敗北し、傳作義の涿州が唯一の拠点となり奉天軍に包囲されてしまう。涿州は北京と保定の中間に位置する重要拠点であり奉天軍は9回にわたる猛攻撃を加えたが、1万人足らずの傳作義軍は頑強に抵抗した。
救援の可能性がないことを悟った閻錫山は、内戦中止を求める中国世論も受けて奉天軍と講和する。これを受けて1927年12月30日、傳作義は「軍事行動を停止し、挺進軍を国防軍に改編する。二度と内戦には参加しない」と発表、翌1928年1月12日に傳作義率いる第4師は開城し、生き残った7000人は奉天軍に改編された。傳作義は保定で張学良に軟禁されることになったが、涿州の防衛戦は傳作義の名を高めることになる。

蒋介石の国民革命軍による北伐の再開と前後して、友人らの助けで傳作義は天津に逃亡する。1928年4月25日のことである。1928年5月日本軍が介入した済南事件により北伐は再び頓挫するかに思われたが、蒋介石は日本軍を回避し北伐を優先させた。中原で敗退した張作霖は北京を捨て東北へ逃れることになる。しかしその張作霖が逃亡途上に爆死する。当初から日本軍による謀殺であると噂されるほど明白な日本軍の謀略であった。
この張作霖爆殺事件が起きた1928年6月4日、蒋介石国民政府は、馮玉祥の国民軍、閻錫山の北方国民革命軍(晋軍)、李宗仁の桂軍と連合した北伐勝利を宣言し、閻錫山は京津衛戍総司令に任じられた。8月、閻錫山は傳作義を国民革命軍第5軍団総指揮兼天津警備司令に任じ、1929年には晋軍第43師師長とする。
このとき、既に奉天派を継承した張学良が東北地方の旗を北洋政府の五色旗から国民政府の青天白日満地紅旗に変え蒋介石への服属を宣言して(1928年12月29日)、辛亥革命以来17年にして中国は再統一されていた。チベットも含めて国際的には蒋介石の国民政府が中国を代表する唯一の政府となった。

しかし、中国国内には国民政府の支配が完全に及ばない軍閥政府が混在していた。当時チベット中央政府からは独立状態にあり、西北の馮玉祥、山西省の閻錫山、広西省の李宗仁、東北の張学良などは半独立状態であった。1930年5月、馮玉祥、閻錫山、李宗仁らが、反蒋介石で一致し大規模な反乱を起こす。中原大戦である。
傳作義は閻錫山の晋軍麾下第3集団軍第10軍軍長として津浦鉄道沿線北部での戦いに参加した。1930年6月25日には済南を占領し、さらに南下したが、蒋介石が陳誠、蒋光鼐(乃の下に鼎)の部隊を増援すると、晋軍は全線に渡って敗退し、8月15日には済南を放棄した。中原大戦は1930年9月18日に張学良が蒋介石側に立つことを表明すると大勢は決し、張学良は華北を支配下として晋綏軍を管理下におくことになった。1930年末、傳作義は部隊を率いて綏遠省防衛に移ることになる。
1931年1月16日、国民政府軍事委員会は傳作義を正式に陸軍第7軍軍長兼第10師師長に任命し、7月には第35軍軍長兼第73師師長に改編した。8月18日には綏遠省代理主席となり、12月28日には正式な綏遠省主席に任命された。
30代半ばの傳作義はここで政治的手腕を試されることになる。