繆澂流第57軍と魯蘇遊撃戦区
繆澂流(繆澄流)(1901-1990)は張学良の東北軍系の軍人で、第二次上海事変時は羅卓英の第15集団軍麾下で第57軍(第111師、第112師)を率いた。しかしこの時の第57軍は長江北岸の江蘇省北部に展開したため、主戦場には加わっていない。ただし、上海戦から南京戦へと至る中で、第112師は長江南岸江陰での戦闘に参加している。
南京陥落後、日本軍が徐州に進攻を始めた1938年2月ごろ、第57軍には第111師しかなかったが、そのうちの第333旅を台児荘の戦闘に参加させている。
徐州が陥落した1938年5月以後、繆澂流の第57軍は山東省から江蘇省にかけての地域に自軍の最前線から取り残される形で展開していた。同様の状態にあったのが、于学忠の第51軍(東北系:第113師、第114師)、韓徳勤の第89軍(第33師、第117師)である。
魯蘇戦区1938年〜1939年
1938年10月に武漢が陥落し日中戦争が膠着状態になると、日本軍戦線後方で遊撃戦を行うための蒋介石国民政府軍の根拠地として魯蘇遊撃戦区(総司令:于学忠*1)が成立する。
そのとき、于学忠の第51軍、韓徳勤の第89軍とともに繆澂流の第57軍も魯蘇遊撃戦区に加えられた。また、青島で海軍を指揮していた沈鴻烈(東北系)も遊撃隊を率いている。
このうち韓徳勤の第89軍は江蘇省中部に根拠地を築いていたが、于学忠の第51軍と繆澂流の第57軍の合計約2万人は山東省中部の沂蒙山区に根拠地を築いた。
しかし、山東省中部には八路軍系の山東縦隊第2支隊、第4支隊が根拠地を築きつつあり、後に摩擦を引き起こす事になる*2。
蘇北作戦(ト号作戦)・1939年の日本軍第12軍による攻撃
1939年2月26日〜3月16日。
中国軍の海陸交通、補給遮断を目的とし、淮陰、海州及び付近塩田を占領し、所在の中国軍を撃破して中国軍の魯蘇戦区の根幹を撃破。*3
その後も、于学忠討伐作戦(1939年3月25日〜4月25日)、魯南作戦(キ号作戦、1939年6月7日〜6月25日)、魯東作戦(1940年1月29日〜2月15日)と討伐を続けたが、国民党軍、中共軍を打倒するには至っていない。
さらにその後、三河作戦(安徽省東部、1940年9月4日〜9月17日)、蘇北作戦(1941年2月16日〜3月13日)*4、淮南作戦(十三号作戦、1941年3月1日〜3月18日)*5、塩城作戦(1941年7月21日〜8月31日)*6を展開するが、魯蘇戦区の国民党軍は持ちこたえ、魯蘇戦区から国民党軍を排除する事に成功するのは1943年になってからである。