石破二朗・石破茂の系譜1
石破二朗は、内務官僚であり第二次大戦ごろから建設関係を主任務としている。
そのため敗戦後も官僚として生き残り、また建設関係の立場から戦後復興に乗じて力をつけている。自民党対社会党といういわゆる55年体制ができた1955年の東京都知事選挙への立候補を田中角栄から誘われたことがあるが、当時50歳にもなっていない石破二朗が当選する可能性は低く、立候補を辞退している。
一方で、石破二朗の義父にあたる金森太郎が戦前に地方の県知事をやっていたことから、知事の権限の強さを知っていた石破は、1958年の鳥取県知事選挙に出馬する。鳥取県は石破の地元であり、1955年から建設事務次官として建設利権を利用して地盤を強化することができる立場にあったことも幸いし、石破二朗は県知事に当選する。
1955年から1958年にかけて石破二朗は県知事選を見据えた地盤拡大工作を行っており、このさなかの1957年に長男が生まれているが、病院に子供の顔を見に行くことすらなかった。
鳥取県政では県議会議員の安田貞栄(社会党、後自民党)とも親しくし、1974年まで4期16年に渡って鳥取県を支配した。しかし、1972年に田中角栄内閣が成立すると、中央進出を夢見るようになり1974年11月に任期満了の予定まで待たず1974年2月に辞任し、同年7月の参議院選挙に出馬している。
石破二朗は、自らの中央進出に先立って1972年に地元鳥取の鳥取大附属中学を卒業した長男・石破茂を東京の慶応義塾高校に進学させている。石破茂は、小学校、中学校とも鳥取大学教育学部附属という坊ちゃん校で育った箱入り息子で、当時、子供には高価だった戦車のプラモデルなどにかぶれる軍事オタクとして育っていたが、高校で東京に出てくると、さらにアイドルにはまるようになった。
有力国会議員の息子で、エスカレーター式の慶応義塾高校に通う石破茂は、物質的には何一つ不自由しないアイドルオタク・軍事オタクの箱入り息子として育てられ、そのまま慶応大学法学部に進んでいる。2年の時に全日本学生法律討論会で1位を取ったとあるが、これは石破茂一人で取ったわけではなく、有力国会議員の息子という立場からグループ内の代表になったに過ぎず、無能なバカ息子ではなかったものの飛び抜けて優秀だったと評価できるような内容ではない。
1980年、石破二朗が自治大臣に就任した時には、石破茂はこれもまた典型的な箱入り息子コースである都市銀行に入行している(三井銀行に1979年4月入行)。
銀行員である息子を利用した業界人脈造りを石破二朗は考えていたようだが、1981年に73歳で死去してしまう。当時63歳だった田中角栄はロッキード事件の影響で表舞台に出にくい状況であった。
1982年に成立した中曽根内閣を田中はコントロールしようとしており、手駒であった石破二朗の死去後の鳥取の地盤も田中の影響下にある人物に後継させたいと考えていた。そこで、当時三井銀行員であった25歳の石破茂に目をつけ、銀行を辞めさせ、田中派の木曜クラブ事務局に囲い込んだ。
しかし、親米保守派の元海軍軍人の中曽根康弘は徐々に田中のコントロールから離れ、1983年末には田中に事実上の決別宣言をしている。このとき、軍事オタクの石破茂は元軍人のタカ派である中曽根側につき、1984年9月の自民党総裁選を前に木曜クラブを退職している。翌1985年田中は脳梗塞で倒れ事実上政治的な力を失った。
中曽根派について上手く立ち回った石破茂は、1986年の衆院選で初当選し、まずは農水族として地盤固めを行うことになる。