日本報道に見る1939年7月頃の北京・天津の状況

新聞記事文庫 中国(18-071)
大阪朝日新聞 1939.7.16-1939.8.1(昭和14)(1〜6)

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北支蒙疆 興亜建設の現地報告 (1〜6)

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(1) 京津篇 快調の経済建設 正規軍も年内に創設
事変は今や第三年に入った、過去二ケ年にわたる北支蒙疆建設の道程を回顧すれば、それは正しく荊棘の道であったが、興亜建設の基礎工事はここに完成しつつある、いまわれ等は祖国の同胞に既往二ケ年にわたる建設のありのままなる過程と成果の現地報告を贈ろうとする、日英会談において英国が容易にわが根本原則を肯じなかった一因に、新政権に対する不安が数えられた、しかしながら、見よ、この新東亜の黎明に芽生え花咲く新秩序の姿態を、英国の弁疏が殊さらに東亜の新事態に眼を蔽わんとするものであることが明かに看取せられるでえあろう、祖国日本に対する北支蒙疆の特殊性と、事変収拾の可能性をこの報告書中より汲み取られるならば、残存蒋政権の抗戦力、一部第三国の抗日東動の如きあえて興亜の大建設を阻むものにあらざるゆえんを諒得せらるるであろう中華民国臨時政府が北京に誕生をみたのは昭和十二年十二月十四日であった、それから一年有半の歳月が流れた、この間王克敏氏を首班とする臨時政府を枢軸としての北支建設譜は高らかに奏でられ、その治績のあとはまことに驚異に値いするものがある、各地からのレポートは破壊の中から湧上る建設の讃歌を力強く伝えている、あらゆる部面で事変前の水準を乗り越えて新しき秩序とイデオロギーの下に北支は更生したのである


政治建設
二ケ年にわたる軍事行動の結果新黄河以北、河北、山東、山西、河南の地は全く臨時政府治下に入り冀東政府も昭和十三年二月一日には合体解消せしめて、これら地方行政組織を逐次整備し、省、道、県の三級制をもって軍閥土豪、劣紳に食い荒されて来た地方制度の面目を一新した、かくの如き対内的再建の進行とともに友邦日本、満洲国にはそれぞれ駐剳代表を送って交わりを敦くし、東亜協同体制の一環として政治的成長をとげたのである、殊に十三年九月維新政府との間に中華民国政府聯合委員会を結成して両政権下の共通事項処理にあたることとなったのは将来の中国統一政権への道を開いたものとして民衆の翹望にこたえたものである、では北支の治安維持に任ずる軍隊、警察はどうか、現状は未だ日本軍の実力によって維持されているにちがいはないが、やがては北支治安を双肩に担うべき中国軍隊の芽生えは斉燮元氏の統轄する治安部の下に警防隊(三ケ聯隊)憲兵(約五千人)として成長しつつある、殊に治安維持を主目的として、新軍隊治安軍(正規軍)若干兵団を本年末までに創設すべく準備がすすめられているが、これは中国軍隊再建の烈々の意図を示すものだ、このほか剿共軍(帰順部隊)約二万が現在も皇軍に協力掃匪工作に勇敢に戦っている、主要都市警察力は現在人員約五万二千人を有し、地方各県には常備県警備隊をおいてその自衛力増大を計っている、かくの如き軍事警察力の整備と相俟って北支の治安は本年初頭来日本軍が分散配置態勢をとると共に急激に回復し、各省の治安回復状況は各地のレポートが報じている如く目覚ましいものがある、なお政府は政治的経済的重要性のために北京、天津、青島をそれぞれ政府の直轄とし、北京特別市(市長余晋□氏)天津特別市(市長温世珍氏)青島特別市(市長趙●氏)の三特別市を設定したが、その市政は全く事変前の腐敗を芟除、新興の意気に溌剌と蘇っている


文化建設
昭和十二年十二月二十四日政府に遅れること十日発会式を挙行した新民会は政府と表裏一体民衆の教化団体として発足、現在では王克敏氏が会長となっているが、北支文化工作の一翼を担当して新民主義イデオロギーのもとに民衆文化の再建に活動をつづけて来た、北支各地を旅行した人は、必ず行く先々の町や農村で新民会の看板を見るであろう、新民会はそれほどまでに細胞組織を整備し、牢固たる地盤を築いたのだ、しかも現在の状態では地方経済工作と併進せずして文化活動があり得ないとき新民会もまた経済建設工作の重要なる役割を果しつつあるのは勿論である
文教方面ではまず中小学校の排日教科書が改訂され、排日系大学、専門学校は閉鎖された、これにかわって、まず政府官吏の養成機関たる新民学院が設けられ、すでに多くの卒業生を政府および関係機関に少壮官吏として送っている、また北支政権下の最高の学府、綜合北京大学は湯爾和総長の統率下に医、農、理工、文、法各学部の内容充実が進められている、また東亜文化協議会が日支両国文化提携のために設立されたことも一つの大きな収穫であったといわねばならない



経済建設
二ケ年間の政治、文化における建設は挙げて経済建設のための側面的援助であったといっても過言ではあるまい、それは民衆の生活安定なくして興亜の大理想はなく、経済的再建をぬきにした東亜協同体制の確立は考え得ないからである、政府は創立とともに直に財政、金融の再建を企図した、先ず北支海関の接収を断行、二回にわたって関税率の改正を行った、さらに統税総署を設けて租税徴収の円滑を期し、政府財政の基礎を確立したのである殊に昭和十三年三月十日中央銀行として中国聯合準備銀行(総裁汪時●氏)を設立してここに北支金融幣制の整備に着手したが、これ以後北支建設戦は本格化したということが出来る、当時なお巨大な勢威をもっていた敵性旧法幣と、新国幣聯銀券との一ケ年半にわたる激烈を極めた通貨戦は、今なお戦いやんだとはいい得ないが、すでに大勢決して旧法幣は一片の反古と化せんとしている
かくの如く経済建設の基調たる財政金融の成功的確立と併行して建設総署を主体としての農業、土木新興も漸次拍車をかけられ、種子配給の如き慈善団体的弥縫策から一転して本格的農業対策が打ちたてられ、棉花、小麦の増産、土地改良、治安道路の建設に積極的進出がなされている、政府が建設総署に支出した費用はすでに一千万円に達し、各部の比率から見てその額は圧倒的で如何にその活動を重視しているかが分る、日本軍の分散配置による経済治安併進工作はこれを助けてあますところがない、各種重要産業の開発はその事業の性質上日本の援助なくしては不可能なので日支合弁開発各子会社に担当せしめているが、すでに華北電電、華北交通両会社も設立されて北支における交通電信事業は整備され、北京、東京国際電話開通など事変前には思いもよらなかった躍進振りである、他種産業もすでに事変前の水準に追っつき追越すといった復興振りで新企業もまた随所に勃興しつつある
殊に今年を第一年度とする北支産業開発三ケ年計画を樹立し日満修正五ケ年計画に呼応して北支建設の刮目すべき態勢をととのえたのは、北支建設が聖戦二周年ここに経済建設基礎工作を終ったことを意味するもので、戦火と天災と、おくれた産業技術下の北支経済から興亜経済への一歩を力強く踏出したものとしてそのスピード振りは驚異の的でなければならぬ

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データ作成:2003.10 神戸大学附属図書