太田寿男証言と梶谷日記との関連性

ここでの太田寿男証言とは、戦後中国で戦犯として収監されていた太田寿男少佐(南京事件当時の階級)による供述書を指す。
供述書は現在公開されており、南京事件に関連する部分については、画像ファイルを「太田寿男証言」記事にアップした。



太田寿男証言の内容

太田少佐は1937年12月15日に占領直後の南京に入り、12月25日に蕪湖支部長を命じられ、12月25日から翌1938年1月9日まで蕪湖にあり、1月10日に南京に帰還している。12月15日から25日までの南京滞在中に、多数の中国人の死体を処理したことが供述書に記載されている。
太田証言で注目されているのは、処理した死体の数である。
12月15日に南京下関に到着した太田少佐は、既に中国人死体処理を実施しつつあった安達少佐と協力して、作業を分担するようにという命令を受けている。それ以前に安達少佐は、3万5千の死体を揚子江下流に流して処理し、3万の死体を焼却又は埋葬場所へ運搬しており、合計6万5千の死体を処理していた。
分担後の12月16日~18日の3日間に、太田少佐は下関西部を安達少佐は下関東部を担当して、死体処理を行っている。下関西部ではこの3日間に、1万9千の死体を揚子江に流して処理、下関東部では1万6千の死体を流して処理している。
合計すると10万の死体を処理したということになる。

梶谷日記との整合性・不一致と言えるか?

この太田証言に対して梶谷日記と矛盾すると主張し、太田証言の信憑性を損なわせようとする言説がある。畝本正己らの主張によると、梶谷日記には、太田少佐の南京到着が12月25日と書かれていて整合しない、という。
この部分だ。

梶谷健郎日記
◇ 十二月二十五日 晴
 〔欄外〕大正天皇祭(騎四時代鶴田准尉来訪さる)
 朝来寒気殊に甚しきも快晴なり。正午頃常熟より太田少佐外来る。津倉、泉原来り久し振りにて歓談す。夕食はスキヤキを実施せり。
 正午より自動車にて中山陵、国民政府等四時間に亙り見学す。下中軍曹外四名は無湖に出張を命ぜられ、常熱より来りたるまま直ちに出発す。我々はいよいよ南京にて新年を迎ふる事となれり。目出度し。(P437)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/nankin/kajitani.html

なお、太田証言になる太田少佐の南京到着日の12月15日の梶谷日記は以下。

梶谷健郎日記
◇ 十二月十五日 晴
 昨日軍司令部は敗残兵の射撃を受けた由なるも、之を直ちに撃退す。支那の巡警察十八名使用す。
 午前午后共附近の敗残兵を海軍と共に掃トウす。十数名を射殺せり。負傷せるものも多数あり、之等を一ケ所に集合せしむ。
 駆逐艦海風は一番乗にして他七隻入港せり。
 気分重く風治らず、夜は歩哨を立て警戒す。(P435)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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確かに、12月15日の梶谷日記には太田少佐の南京到着について書かれていない。しかし、この当時、太田寿男は少佐であったのに対し、梶谷健郎は軍曹であり、少佐が軍曹に到着をいちいち報告したりはしないことを考えると、12月15日の梶谷日記には太田少佐の南京到着が書かれていなくてもおかしくはない(梶谷は太田の部下でもない)。それどころか、12月15日の梶谷は午前午後とも海軍と共に敗残兵の掃討をしており、15日夕方に太田少佐が到着したことを知らなくても何の不思議もない。

梶谷日記との整合性・一致する部分

逆に梶谷日記には太田証言と整合している箇所が多く見られる。
12月25日の梶谷日記では、梶谷の旧知と思われる「津倉、泉原」や「下中軍曹外四名」についての言及があり、「無湖に出張を命ぜられ、常熱より来りたるまま直ちに出発す」とある。
太田証言では「12月25日南京碇泊場蕪湖支部長を命ぜられ将校1、下士官1、兵10と共に蕪湖に前進」とあり、梶谷日記とよく一致している。

梶谷日記では太田少佐にかかわる記載はこちらのサイトを見る限り、一箇所しかなく、梶谷軍曹にとって太田少佐はさほど面識のある人物ではなかったことが伺える。梶谷日記12月25日の「正午頃常熟より太田少佐外来る」との記載は、梶谷にとって旧知で常熟にいた下士官兵らを蕪湖派遣予定の太田少佐が連れてきた、という程度の内容とした方が理解しやすい。

12月14日~15日の梶谷日記

梶谷健郎日記
◇ 十二月十四日 晴
 南京入城の日。
 午前十時出発、風を引き頭重し。
 麟麟門地に引返し更に軍司令部の位置湯水鎮に着き、連絡の上昼食後一路南京に入城す。
 時に正午、城内の残兵は未だ相当あり、北部の碼頭には行けず、鈴木部隊長も来られた。
 約二千名の敗残兵は武装解除をされ城内に連行さる。感激の南京に遂に白身入城をなす。(P435)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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梶谷健郎日記
◇ 十二月十五日 晴
 昨日軍司令部は敗残兵の射撃を受けた由なるも、之を直ちに撃退す。支那の巡警察十八名使用す。
 午前午后共附近の敗残兵を海軍と共に掃トウす。十数名を射殺せり。負傷せるものも多数あり、之等を一ケ所に集合せしむ。
 駆逐艦海風は一番乗にして他七隻入港せり。
 気分重く風治らず、夜は歩哨を立て警戒す。(P435)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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12月14日・15日の時点では太田少佐は南京にいないものの、その時の状況については後から聞いていたようであり、この2日間で安達少佐が6万5千の死体を処理し、重傷・瀕死の捕虜1500名についても処理したと述べている。安達少佐配下の梶谷軍曹もその期間に敗残兵狩りをやっていたを日記に書き残している。「約二千名の敗残兵は武装解除をされ城内に連行さる」の記述は、太田証言の「重傷・瀕死の捕虜1500名」を指している可能性も否定できない。

12月16日~18日の梶谷日記

梶谷健郎日記
 ◇ 十二月十六日 晴
 午前二時頃機関銃の音盛んに聞ゆ。敗残兵約二千名は射殺されたり。揚子江に面する下関に於て行はる。
 午前中部隊長、少佐と共に港内巡視を行ふ。二番桟橋にて約七名の敗残兵を発見、之を射殺す。十五歳位の子供も居れり。死体は無数にありて名状すべからざるものあり。常熟より後続部隊乗る。
 気分益々悪し、されど命を的の戦場なり。(P435)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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梶谷健郎日記
◇ 十二月十七日 晴
 〔欄外〕 南京入場式に参列の光栄に浴す
 午前一時頃より約一時間に亘りて敗残兵二千名の射殺あり、親しく之を見る。誠に此の世の地獄にして月は晄々と照り物凄き限りなり。十名ほど逃走せり。
 午前九時三十分発にて城門に於ける入城式に参列す。戦闘に参加せる部隊の1/3にして我等も光栄に浴す。松井司令官以下二百名馬上入城す。午后六時遂に寝る。田代、軽部共に看護に当り感謝の外なし。(P435-P436)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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梶谷健郎日記
◇ 十二月十八日 曇
 気分精良好にして午后起る。寒気は相当進行せり。御船伍長無錫より来る。
 昨日より花園飯店の宿舎に移る。本部は桟橋前にして南京碇泊場の看板挙げあり。
 無線ニュースによれば本日御前会議ありて、南京占領後の国策方針の決定ある筈。
 午后気分良好の為め外出したるも又悪化の模様なれば早く寝る。
 本日夜、本部衛兵所前にて射撃事件あり、之を取調べ銃殺の予定の所、先方の部隊長に引渡す。(P436)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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梶谷健郎日記
◇ 十二月十九日 晴
 今朝来南京に本格的冬来り益々寒気迫る。
 午前中より作業を始む。汽船続々投錨し、揚搭は盛んに活動せり。碼頭附近の掃除も大半整理せらる。
 自転車にて城内に行く。小磯軍曹の腹痛は良好にて本日起てり。津倉、泉原来らず。
 敗残兵射撃の銃声は漸く止みて、混乱せる各所も各員の努力に依り大方清潔になりつつあり、毎日多忙なり。(P436)
(『南京戦史資料集Ⅱ)

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12月16日、17日深夜に二夜連続で敗残兵2000名の射殺が行われていたことが書かれている。この間もなお、敗残兵狩りとその処刑が行われており、太田証言では死体処理としか書かれていないものの、内容としてはほぼ一致する。「碼頭附近の掃除も大半整理せらる」や「敗残兵射撃の銃声は漸く止みて、混乱せる各所も各員の努力に依り大方清潔になりつつあり」との記述から12月19日には下関付近の死体処理はほぼ完了していたことが伺われ、作業期間の認識も太田証言とよく一致していることがわかる。

戦史叢書の記載との整合性録(1937年12月14日~17日)

 十四日、第一警戒部隊各艦艇は敗残兵の掃蕩、航路の啓開を続行した。その概要は次のとおりである。掃四は蕪湖に進出。「二見、熱海」は草鞋峡水路を啓開。「比良」及び特掃二隻は鎮江において天谷支隊の渡江作戦に協力。特別作業隊は烏龍山閉塞線の拡大啓開に従事。「保津、鵲、安宅、鴻、江風」は、「パネー」遭難地にあって救助作業に従事。各艦艇は陸戦隊を揚陸して江岸の敗残兵を掃蕩、下関の海軍碼頭、中山碼頭一帯を占拠。
 十五日、「栂、掃二号」はそれぞれ南京下流及び龍潭水道において残敵掃蕩。「保津、鵲」は徹宵執拗な敵の狙撃を冒してパネー遭難者救援作業に従事した。〇一〇〇米国砲艦オアフ及び英国砲艦レディバードは遭難者の収容を終わり、「鵲」は両艦を嚮導下江した。また「保津」は蕪湖に進出、夕刻同地に到着した。
 十六日、南京附近在泊艦艇は十五日夜から引き続き江上を漂流する残敵を掃蕩した。また「二見、勢多」は終日寶塔水道一帯の残敵を掃蕩するとともに、「勢多」は陸戦隊を揚陸し、硫安工場一帯の敵陣地を占領した。
 十七日午後、南京入城式が陸海軍部隊によって行われた。中山門から入城の陸軍部隊と呼応し、長谷川支那方面艦隊司令長官、大川内上海海軍特別陸戦隊司令官、近藤第十一戦隊司令官は各幕僚を従えて挹江門から入城、中山路に堵列する上海海軍特別陸戦隊の二コ大隊と艦艇陸戦隊の閲兵を行い、式場たる国民政府に向かった。このとき海軍航空部隊も陸軍航空部隊と共に、陸上部隊の入城と呼応して空から編隊入城し、南京上空で分列式を行った。かくして南京攻略作戦は終結した。

http://scopedog.hatenablog.com/entry/2017/10/26/072200

海軍側からの記録として12月14日から17日までの記載であるが、14日の「敗残兵の掃蕩」「江岸の敗残兵を掃蕩」、15日の「残敵掃蕩」などが、太田証言や梶谷日記と整合するといえよう。特に15日については梶谷日記で「敗残兵を海軍と共に掃トウす」とあり、陸海共同で敗残兵狩りを行っていたことを示している。