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臼井勝美「日中戦争」における新四軍事件の記述

 一九四一年一月七日から始まった国民政府軍の包囲攻撃により安徽省南部における共産軍(新四軍)約七〇〇〇は壊滅的打撃を受けた。大規模な国共両軍の軍事衝突である(皖南事件)。この衝突の原因は、日中戦争開始以来着実に勢力を伸ばしてきた共産軍の脅威を抑止しようとする国民政府の計画が発端であった。前年(一九四〇年)七月、国民政府は第二戦区(閻錫山)を拡張したうえで八路軍および新四軍を同戦区に編入しようと試みた。すなわち朱徳を第二戦区の副司令長官に任命し、共産軍を朱徳の分担地区すなわち河北、察哈爾両省と黄河以北の山東省および山西省北部に集中させようとしたのである。この決定に従い黄河以南、揚子江流域で活動する共産軍に対し、日時を限定して指定作戦地域への移動、集中を命じたのである。共産側は当然反発し、移動北上を強制しようとする国民政府側との軋轢は日に日に激化していた。皖南事件はその軋轢が実力行使にまで発展した事件であり、国共対立の深刻化を表徴する事件であった。

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第3戦区司令長官顧祝同は1940年12月下旬、7個師約8万人の兵力を集めて第31集団軍を編成、上官雲相を前敵総指揮に任命し、安徽省南部に駐屯していた新四軍を取り囲む態勢をとった。
新四軍が司令部を置いていた雲峰の北東に第52師と第108師、南東に第62師、南方に第40師と第79師、南西に第144師、西方に新編第7師が展開した。
1941年1月4日、葉挺、項英率いる新四軍約9000人は3個縦隊で雲峰を出発し、星潭での合流を目指して南進を開始した。
1月7日払暁、新四軍の各縦隊は、星潭の手前で待ち構えていた第40師の攻撃を受ける。8日、新四軍は攻撃を避けるため南西方向へ転進したが、今度は第79師が待ち構えており、8日夜新四軍は北西方向へ後退を開始する。しかし、第40師と第144師が左右から迫り退路が絶たれ、その後四方から、第40師、第52師、第108師、第79師が迫り、新四軍は東流山附近に追い詰められる。
1月10日から、国民政府軍は6個師をもって代わる代わる新四軍を攻撃し、14日、包囲突破に成功した約2000人を除き、新四軍は壊滅した。

*1:日中戦争」臼井勝美、P133