1934年

第一次張北事件に関する陸軍省の主張

陸軍省新聞班が1935年7月30日に発行した「北支事件及宋哲元軍不法事件に就て」に第一次張北事件の記述がある*1。 二 第一次張北事件 昨昭和九年十月、支那駐屯軍の幕僚*2及領事館員等数名は、内蒙地方の旅行を企図し、護照*3等を準備したる上旅行先各地出先…

上海駐在の日本海軍将校によるスパイ活動

平時においても駐在武官や駐留軍将兵らが、任地で諜報活動をするのは軍事的には普通のことである。1934年9月10月に中島中佐が行った虹橋飛行場の偵察活動も軍事的には当然の行動であるが、これは1937年8月9日の大山事件での大山中尉の行動を暗示してもいる。…

第一次張北事件の概要

1933年5月31日の塘沽停戦協定以降も察哈爾省と熱河省の境界は不明瞭であったため、満州国軍・関東軍と宋哲元軍との間で小規模な衝突が頻発していた。このため、察哈爾省中心部の張家口と張北は宋哲元率いる第29軍によって厳重に警戒されていた。1934年10月27…

第1次張北事件と宋哲元の立場

日本軍が熱河省を占領した1933年5月、遠く南京にあった蒋介石は抗日を先延ばしし、何応欽を通じて日本軍との停戦協定を結んだ。塘沽停戦協定である。 華北の民衆の抗日意識は高まり北方軍閥の諸将領も抗日の覚悟を決めつつあったが、蒋介石の国民政府の支援…