鄧龍光の略歴

鄧龍光(1896-1979)字は剣泉。広東茂名の出身。広東黄埔陸軍小学第6期、武昌陸軍第二予備学校、保定陸軍軍官学校第6期歩科卒業。1923年粵軍(「粵」は広東省の別名)第3師第6旅第11団に中校・副団長として配属。その後、上校・団長、国民革命軍第四軍教導第1師副師長、師長、第12師師長、第一集団軍艦隊司令、独立第4師師長、第9師師長を歴任。
1936年1月陸軍中将に昇進、第四軍副軍長兼第156師師長に就任。抗日戦争時は、第83軍軍長、第29軍団副軍団長、第三十五集団軍総司令を歴任。
1945年後半、陸軍第二方面軍副司令長官、広州行営副主任、広州綏靖公署副主任、総統府戦略顧問に就任。1979年2月3日、台北栄民総医院で逝去。「第四軍紀実」に編著に参加。

参考:鄧龍光


南京防衛戦

1937年12月の南京防衛戦では、第83軍軍長として第154師(巫剣雄)と第156師(李江)を指揮し、日本軍の猛攻をよく防いだ。
12月12日に唐生智から撤退命令が出ると各陣地で必死に防衛戦闘を行っていた国民党軍は混乱しはじめる。第83軍隷下で中華門方面の防衛を支援していた第154師(巫剣雄)は第88師(孫元良)の崩壊に巻き込まれ混乱するが、第156師(李江)は日本軍の包囲を突破すべく太平門に集結。鄧龍光率いる第83軍は、葉肇率いる第66軍と協力して12月12日夜半に日本軍の包囲を突破して脱出に成功する。
突破に際し、第66軍が先鋒、第83軍が後衛を務めた。
最後衛を務めたのは、第83軍第156師隷下の第932団で第156師参謀長の姚中英少将が指揮を取った。姚中英の第932団は本隊の撤退を成功させたが、自身は本隊を追って後退中に日本軍歩兵第33連隊(第16師団第30旅団隷下・長:野田謙吾大佐)に捕捉され激戦の後、戦死した *1。しかし、姚中英の掩護により、第83軍は撤退に成功した。

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*1:南京保卫战8位将军:突击、断后、突破封锁线时殉国