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中原会戦(百号作戦)・晋南(中条山)会戦

推移

1941年5月7日、日本軍北支那方面軍が6個師団、3個旅団を動員して、山西省黄河北岸の中条山地区に展開している中国国民政府軍9個軍に対し攻撃を開始。
日本軍は、黄河を背にした中国軍に対し、東西北からの包囲攻撃をかけた。

東方(沁陽→済源→邵源)

東方から進攻したのは、日本軍第35師団、第21師団、騎兵第4旅団の一部。防衛していたのは、中国軍第9軍。第9軍は抵抗したものの進攻翌日の5月8日に、済源・孟県の防衛ラインから敗退し、封門口まで後退した。5月9日には日本軍は封門口と竜王窩に攻撃を開始、翌10日には突破、12日には日本軍は邵源に到達し、西方から進攻してきた日本軍と合流した。
日本軍別働隊は、竜王窩から官陽に進攻し、黄河の渡河点である官陽が日本軍の手に落ちる。
中国軍は、済源・垣曲街道の両側から日本軍に対し反撃を開始。

北方(陽城→董封→横河)

北方から進攻したのは、日本軍第33師団。進攻初日の5月7日に董封を守る中国軍第98軍を攻撃。5月13日に日本軍の援軍が到着し董封陥落。第98軍は横河南東地区まで後退して防衛戦を再構築した。横河地区を守る中国軍は第98軍と第15軍を麾下とする第14集団軍で、頑強に抵抗した。

西方北側(翼城・絳県→垣曲)

西方北側から進攻したのは、日本軍第41師団、独立混成第9旅団。西方北側から第43軍、第17軍、第3軍、第80軍と並ぶ中国軍防衛ラインの中央を突破し、日本軍は黄河沿岸の垣曲まで進攻、5月8日に占領した。日本軍は垣曲占領後、東西両側に進攻し、中国軍黄河から切り離した。

西方南側(聞喜・夏県→張店→垣曲)

西方南側から進攻したのは、日本軍第36師団、第37師団、独立混成第16旅団。5月7日午後から進攻を開始、夜半に張店の陣地を突破した。防衛していた中国軍第80軍麾下の新編第27師は頑強に抵抗したが、師長・王竣、副師長・梁希賢、参謀長・陳六祀らが戦死した。


5月12日になると、日本軍に中央突破され黄河南岸との連絡を断たれた中国軍は山岳の隘路で苦戦し、13日には撤退を開始、5月19日には各主力は日本軍の包囲網をすり抜け戦線後方へと逃げ失せた。5月27日には、事実上戦闘は終結した。

中共八路軍は日本軍後方で牽制攻撃をかけ、撤退する中国国民政府軍を援護し、また逃げ散った国民政府軍を吸収した。




「近代日本戦争史 第三編」第五章 事変解決の努力とその失敗 第二節 持久態勢下の陸上諸作戦 河野収 P460

 また北支那方面軍は、五月七日から六月十五日の間、主戦力(第二十一・第三十三・第三十五・第三十六・第三十七・第四十一各師団、第九・第十六各混成旅団、一コ騎兵旅団の各主力)を以て、洛陽北方黄河北岸の山岳地帯に治安攪乱基地をもつ衛立煌指揮下の中央軍(二六コ師、約一八万)に対して徹底した包囲作戦<<中原会戦(百号作戦)>>を実施して大きな戦果を挙げた。中央軍系部隊が壊滅すると、遊撃戦がより巧妙な中共軍部隊が該地域に侵入し、「これより北支の遊撃戦は共産党軍の独占するところとなった」*1と言われるが、当時方面軍作戦主任参謀であった島貫武治中佐は、この作戦の成果に関し「沁河河谷に共産勢力が伸長したのは、中原会戦後の施策が適当でなかったためである。・・・従来、当方面に拘束されていた日本軍の行動の自由が得られ、その後は全力をあげて対共戦に立ち向かうことができるようになった」*2と述べている。

*1:「戦史叢書支那事変陸軍作戦3 P372(当時の方面軍第二課参謀 山崎重三郎少佐の回想)

*2:「戦史叢書支那事変陸軍作戦3 P372(当時の方面軍作戦主任参謀 島貫武治中佐述)