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クロード・ファレールの「アジアの悲劇」に記載された大山事件

1937年 第二次上海事変

歴史修正主義者である東中野修道が「南京「虐殺」研究の最前線」で、南京大虐殺否定論に利用したクロード・ファレールの記述であるが、同様の記述は「アジアの悲劇」(1939年訳)にも存在する。
東中野修道が利用した東亜同文会調査編纂部の雑誌「支那」は、1938年9月号として出版されているがほとんど巷間に知られていなかったらしい。そのため、同じく「Le grand drame de l'Asie」を別の人物が翻訳したのが、「アジアの悲劇」である。
「アジアの悲劇」は1939年当時、重砲兵連隊の陸軍伍長だった森本武也が翻訳したものを、父である森本厚吉が出版したものである。東亜同文会調査編纂部の雑誌「支那」は国会図書館にすら所蔵していないようだが*1、「アジアの悲劇」は国会図書館で閲覧可能である。

大山事件に関する記述は、「第四章 上海攻略戦」の中の一節で106ページから107ページにある。

 其後一九三七年八月九日、日本の一将校と運転手は日本の警戒担当地域たる上海中立地帯の観察からの帰途、全然据える権利のない地点に巧みに据えられた支那機関銃に射殺せられたのである。
 その後日本軍は実に立派に沈着を守り、小説に出て来る優秀な警察官のとる様な態度をとった。即ち自動車にも死骸にも触れず、大上海の支那市長はじめ英仏米の官憲を呼んでその検分を待って居たのである。
 一同が到着して事実を検分すると一支那兵が現場から百歩ばかりの所に即死して居た。然し検察の結果、この支那兵は同僚に自動拳銃により殺された上、日本人が虐殺を敢行した外観を作る為に現場まで引摺られて来たのであったことは議論の余地もなかった。

東中野修道が利用した雑誌「支那」の記述と同じ内容であることがわかる。微小な差異は翻訳者の違いに起因するのであろう。
この内容が間違っていることは前回指摘したとおりである。

同じ「アジアの悲劇」第四章中に面白い記述(P112-113)がある。

 その例を挙げよう。上海戦に於いて支那軍が敗れて日本軍が都市及びその文明を確保して呉れた時、日本軍は聊か得意満面だったのである。然し、これは彼等には当然許さるべき態度であろう。これで彼等は租界をも含む全市内に亙り優勝部隊の堂々たる戦勝行進を組織したのであった。行進は頗る順調に進んだが仏蘭西租界に至り停止して仕舞ったのである。
 「通らして下さい」
 「遺憾ながらお通し出来ません。此処は仏蘭西です。三色旗をご覧になって下さい」
 「しかし我々は上海市を救ったのです」
 「それは確かにそうです。我々もそれを心から感謝して居ります。然しそれ故に貴官等が武装して租界内に入る権利がある訳ではありません」
 「それでも是非とも租界内に入れて頂きたい」
 「どうしても租界内にお入りになりたいのなら貴官等は、退却するなと云う命令を受けて居る仏蘭西の防備兵を先ずお殺しにならなければなりません」
 日本軍は敬礼して立ち去った。

上海戦終了後の1937年12月3日に、日本の陸軍部隊が上海共同租界内を示威行進したのは事実である。行進は戦勝軍にとっての晴れ舞台であるが、日本軍は中国軍と戦ったのであって上海租界と戦ったわけではないし、上海租界が日本軍と共に中国軍と戦ったわけでもない。上海の共同租界で行進したいというのは日本の自己満足にはなっても外交上、大きな不信を抱える事になる。
実際、共同租界の行進に対してアメリカの参事官は中止を望んでいた。

外務省東亜局長石射猪太郎は11月30日の日記にこう記していた。

○米ドーマン参事官来訪、共同租界を日本軍が通る話はよして呉れと、注意喚起文を持参す。松井司令官の陶酔言が方々へひびく。

http://blog.goo.ne.jp/1937-2007/e/7b0106cf7fd896fd905acbf168de288f

また、日本海軍の方は国際関係を考慮してか、租界内の行進を辞退している。

松井石根大将陣中日記」、12月3日の項より。

 此日第百一師団工藤少将の指揮する歩百三聯隊、砲兵一大隊を以て共同租界内の示威行軍を実施す 両租界当局極力租界内の警備に尽くしたるも 遂に一名の支那人の爆弾事件ありたるも大事なく無事示威の目的を達成せり 内外人等しく驚異の目を以て之を見る 在留邦人の感激此上なし 只此事始め海軍に交渉し陸戦隊の協同を希望したるも海軍側が例の租界と列国を気兼ねする心地尚去らず 遂に陸軍と協同するを辞したるは極めて遺憾なり
 此本行軍の結果 特ム部をして共同租界警察総監との間に今後一層租界内排日分子の取締を要求し 必要と認むる時は 軍は自衛上租界内清掃に関し独自的手段を取るべきことを約せしめたるは爆弾事件の功名なり

http://blog.goo.ne.jp/1937-2007/e/7b0106cf7fd896fd905acbf168de288f

ファレールは「これは彼等には当然許さるべき態度であろう」と日本軍を擁護しているが、ファレールの母国であるフランスの租界は日本軍の行進を拒絶していることからファレールの擁護論は空しい響きしかない。日本軍の行進は滬西(上海西部)から共同租界とフランス租界の境界に位置するフォッシュ路(現・延安中路)・エドワード7世路(現・延安東路)を通り、南京路に向かう経路を通ったが、結局フランス租界には入れなかった。
しかも「行進は頗る順調に進んだ」というのも誤りで、実際には抗日分子による爆弾投擲事件(「南京路事件」)があった。
南京路に差し掛かった日本軍の行進列に突如爆弾が投げ込まれ、2名の日本兵が負傷したのである。犯人は直ちに工部局の中国人巡査に射殺されたものの日本軍は附近1キロ四方を占領すると上海租界工部局側を脅迫し、工部局警察のゼラード警視総監に対し、日本軍の上海租界内自由通行を認めさせている。
これは「楠本・ゼラード覚書」と呼びこの後、日本軍は事あるごとにこの覚書を持ち出し上海租界側を圧迫したのである*2

ファレールが「「しかし我々は上海市を救ったのです」」と語った実態はこのようなものであった。

*1:拓殖大学図書館くらいしか所蔵していないようだ。

*2:「東京兵団 下」畠山清行、P219-220