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上海日本人僧侶襲撃事件についての追記

1932年 第一次上海事変

TBで臼井勝美氏の「満州事変」での記述について情報をもらったので前の記事に追記する意味でUP。

一月十八日、日本山妙法寺の僧侶天崎啓山、同水上秀雄とその信徒後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉の五名は、寒中勤行のため団扇太鼓を打ち鳴らしながら、共同租界東部の東華紡績工場付近から寺への近道のため、馬玉山路の三友実業社前を通行した。午後四時過ぎである。

と150Pに書いてありました。
どうも児島氏が言う「道を間違えた」という記述そのものが間違っているのではないでしょうか。

http://ameblo.jp/ssmaru/entry-10698315732.html

こちらでも記述を確認しました。
その他に畠山清行氏の「東京兵団」や事件の被害者である日本山妙法寺の見解などを確認したので、合わせて記述する。

遭難した僧侶について

著者 書名 僧侶の名前
児島襄  日中戦争2、P174 天崎啓昇
臼井勝美 満州事変、P150 天崎啓山
畠山清行 東京兵団 上巻、P233 大崎啓山
今井行順 但行礼拝の行者 天崎行昇

畠山氏の「東京兵団」での「大崎啓山」は「天崎啓山」の活字ミスだろう。「啓昇」「啓山」「行昇」と三つの名前があるが、僧侶であるので、修行の段階で名前が変わったものと考えてよいと思う。
死亡したのは、僧侶・水上秀雄一人であって、他の4名は重軽傷。

天崎ら5名はどこに向かっていたか?

著者 書名 目的地 道程
児島襄  日中戦争2、P174 公大紡・第一工場付近に向かって 虹口→匯山路→華徳路→馬玉山路
臼井勝美 満州事変、P150 寺への近道 東華紡績工場付近→馬玉山路
畠山清行 東京兵団 上巻、P233 - 楊樹浦路→馬玉山路
今井行順 但行礼拝の行者 - 道も決めないで歩いていた

どういう道を通ったかについては各人ばらばら。
ただ、地図を見ると少なくとも畠山説はちょっとありえない。楊樹浦路は楊樹浦地区の一番南を東西に通るかなり大きな道だがこの道路は馬玉山路(現・双陽路)につながっていない。
そして、児島説もおかしい。「匯山路→華徳路」というのが不自然で、そもそも児島説は「僧侶は本当は平凉路を通るつもりだった」説である。華徳路(現・長陽路)も匯山路(現・霍山路)も平凉路も東西に平行して走っている道路だ。北から華徳路(現・長陽路)、匯山路(現・霍山路)、平凉路と並んでいる。
つまり、児島説の言う通り、平凉路に行くつもりだったのなら匯山路(現・霍山路)から南に進まなければならないのに、全く反対の北に向かって進まないと華徳路(現・長陽路)には行けない。「匯山路→平凉路」のつもりで「匯山路→華徳路」では間違いにも程があり、不自然すぎる。
遭難した日本山妙法寺の今井行順説は、道も決めないで歩いていたというもので説得力があり、かつ児島説の否定である。
臼井説は「東華紡績工場付近→馬玉山路」であるが、東華紡績工場は華徳路(現・長陽路)と馬玉山路(現・双陽路)の交わる北西角に存在するので、「華徳路→馬玉山路」と同じと言える。

以上から畠山説は論外として、児島説はかなり怪しいと言える。「公大紡・第一工場付近に向かって」というのも「僧侶は本当は平凉路を通るつもりだった」も根拠がなく児島襄氏の創作ではないか*1
今井行順説と臼井説は基本的には矛盾しない。臼井説の「寺への近道」説であるが、日本山妙法寺の場所が江湾路であり、東華紡績工場から見ると西北西方向で馬玉山路(現・双陽路)が近道と言えなくはないだろう。
馬玉山路(現・双陽路)を北に行くと、共同租界から外に出ることになるが境界壁があるわけでもなく、中国人と外国人が雑居する地域が続いている。日本山妙法寺は1930年に上海に進出してきた当時における新興宗教であるが、当時は浄土真宗本願寺派西本願寺)の大谷光瑞による画策で上海の日本人居留民の寺を本願寺だけに制限しようとされていた中での進出である。このため、日本山妙法寺の上海布教主任であった天崎啓山は布教に力を入れていたことは容易に想像でき、また日本山妙法寺が非暴力平和主義を主張していることから、日中間で不穏な状況であった1932年1月でも共同租界の内外に構わず、中国人、日本人の住む地域で寒行を行うことに意義を感じたのだろう。

日本山妙法寺も謀略であったことを否定している

例えば第1次大戦と20世紀サイト*2では、以下のように述べている。

他方、被害を受けた僧侶の属する日蓮宗日本山妙法寺派は現在でも謀略説を否定している。

田中隆吉は「東京裁判」で米人検事キーナンのアドバイザーをつとめた。本人は「日本人の犯罪」をあばき、米人検事に迎合する意欲は強かった。そのうえキーナンは田中に住居や情婦をあてがうなどの「証人への利益供与」「不当捜査」を働いていた。全体として、田中証言の任意性を疑う必要がある。

事件は「中国人による日本人僧侶への襲撃」と「日本人居留民によるタオル会社への襲撃(反撃)」の2段階に分かれている。田中はせいぜい、タオル会社への襲撃を「上海ゴロ」に使嗾した程度ではなかろうか。満州事変によって、上海における反日感情は従来になく高まっていた。

http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/shanghai%20first.html

このサイトの管理者である別宮暖朗氏の記述には中国人に対する差別感情が見え隠れしているが、上記も同様の認識と言える。児島氏同様に明言は避けつつも、謀略の否定論を述べている。
日本山妙法寺が謀略説を否定しているというのは、以下の部分である。
1997年9月4日の第三十回中央教化研究会議の基調講演で日本山妙法寺長老である今井行順氏が述べた内容である。

京都の河合日辰猊下、お師匠様がインドに行かれた後、三人のお弟子さんを送ってこられました。永井行慈上人、三木慈教上人、天崎行昇上人さんはまだ生きています。青年時代に上海事件のときに遭難にあった人です。日本山の寒行に出てきまして、寒行の中で太鼓をたたいて一緒に歩いていた。あれは松本清張なんかの書いたもので、東京裁判からとっているからいいかげんな書き方をしています。けれどもあれはただの寒行だった。全くの偶然です。道も決めないで歩いていた。そしたらあちこちで集会がある。たまたま抗日の集会をやっているところのそばまできた。そこで日が暮れたので提灯をつけた。その提灯に「日本山妙法寺」と書いてあるでしょう。それを見て、抗日演説をして、それを聞いている連中も興奮していますから、パーンと石を投げ込んだのです。それをきっかけで周りから襲撃を受けた。それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。ただこの事件を上海事変のきっかけに軍部が利用したのです。この事件を確かに利用はした。けれども事件が起きたのは全くの偶然です。寒行で回っていて、提灯をぐっとあげた。そしたら「日本山妙法寺」と真ん中にでているので石をぶつけられた。それがきっかけになってあの事件が起きたのです。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_295.htm

そもそも田中隆吉少佐が謀略を行ったとすれば、三友実業社の従業員などに対してであって、日本山妙法寺に対してはないことは自明である。したがって、日本山妙法寺がなぜ謀略説を否定しているのか?一体何を否定しているのかの把握が必要で、言及されている松本清張による主張などを調べる必要があるだろう。
しかし、おそらく日本山妙法寺も謀略に加担したのではないかという主張がどこかにあったのだろう。それで「それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。」と言ったと思われる。天崎啓山氏らを襲った中国人が買収されていたかどうかなど、日本山妙法寺には知りえないはずなのだ。
別宮氏がこれを取り上げる理由は否定論を示唆するためには考えられない上に、その後には「田中証言の任意性を疑う必要がある。」と言い出す始末であるから救いようがない*3

*1:そもそも、臼井勝美の「満州事変」P150によると、田中隆吉は「当初、日本人ではなく朝鮮人を襲う計画であったといっている」そうだ。

*2:http://ww1.m78.com/index.html

*3:他の記述では、裁判証言ですらない憶測や流言をそのまま信頼して記述している。例えば「蔡廷鍇の意図は現在に至るもはっきりしないが、傘下の師団の扶養に困り上海の租界参事会をゆすり金をせしめるのが目的だったと思われ。」や「蔡廷鍇はすでに租界参事会に兵士の給与支払いを要求しており、参事会の日本人メンバーは討伐を主張し堂々巡りの議論をしているところだった。」。十九路軍に給料を払うべきは蒋介石であったし、十九路軍に対する募金活動が上海実業界で行われたのは事実だが、それは十九路軍を早く追い出すための自発的行動に過ぎず、蔡廷鍇の要求ではない。