南方占領地への慰安婦輸送

1941年12月の対米開戦以降、日本軍は一気に南方に占領地を拡大していった。
1942年1月にはフィリピンのマニラを占領し、マレー半島ではシンガポールを望む対岸にまで迫っていた。

その1942年1月10日には既に日本軍は南方占領地に慰安所を解説するため、台湾や朝鮮、日本内地から慰安婦を連れてくるよう周旋者に要求している。しかし、慰安婦の海外移送は売春目的の渡航に他ならず、1910年の醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約に抵触する恐れがあった。
慰安婦輸送のために南方へ向かいたいと申請する周旋者が台湾総督府に申請に訪れ始めた1942年1月、本来なら国際条約に抵触するため、即座に却下して構わない申請のはずだったが「軍の要求」であったことがそれを困難にした。
当時、台湾総督府外事部長であった蜂谷輝夫は、軍要望に基づく慰安婦輸送のために南方へ向かいたいと申請する周旋者の対応に苦慮し、1月10日、日本の外務省に取り扱いの指示を求めている。
これに対し日本の東郷外務大臣名で、旅券の発行を認めず、軍の証明書で渡航させるよう回答がきた。

日本でも軍要望での売春目的渡航許可申請が相次いだため、1942年3月、日本政府は閣議で南方渡航者に関する暫定措置を決めている*1。これにより、軍属以外は外務省による渡航許可書を必要とし、出発前に軍の承認が必要となり、軍の指示で渡航する場合は目的を軍経由で外務省に報告することとなった。
これにより、南方へ慰安婦を連れて行こうとする周旋者らは、外務省には渡航目的を軍の要望とだけ伝え渡航許可書を取得し、軍は外務省に対し当たり障りのない渡航目的を伝えるという組織的な売春目的渡航の黙認のための体制ができあがった。

朝鮮ではどのような対応が取られたか不明だが、遅くとも1942年5月には周旋者達が朝鮮での慰安婦募集を開始している。


参考:未だに軍の関与はなかったとか虚言を弄するネトウヨに騙されないために|誰かの妄想

*1:1942/3/13「邦人ノ南方渡航者統制ニ関スル暫定措置要領」