読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

盧溝橋事件

1937年7月7日夜、北平郊外盧溝橋で夜間演習中の日本軍(支那駐屯歩兵第1連隊第8中隊)に対し中国側陣地からの発砲があった。日本軍兵士一名の所在が確認できなかったことから俄かに緊張が高まり、支那駐屯軍歩兵第一連隊の牟田口連隊長は中国側に攻撃を一木大隊長に下命。所在不明だった兵士は無事見つかったものの戦闘が開始された。
当初は、それまでにあった小競り合いと同程度の紛争であり現地では停戦になったが、近衛内閣は内地から増援部隊を派遣することを表明し、蒋介石率いる国民政府は態度を硬化させ、中央軍の派遣を開始する。当時、北平近辺を守っていたのは、蒋介石直系の中央軍ではなく軍閥宋哲元率いる第29軍と華北政務委員会であった。形式的に蒋介石の国民政府に属するが独立色が強く、故に蒋介石は中央軍に吸収しようと狙い、日本軍は国民政府から切り離し日本の傀儡にしようと画策していた。宋哲元は日本軍と蒋介石の間で巧みに生き残りの策を講じるが、満州事変以来民衆の反日感情は激しさを増し、蒋介石に期待する声が高まっている中で、宋哲元は日本との距離のとり方に苦慮している。
盧溝橋事件に乗じて日本がまた何らかの要求を押し付けてくることは容易に予想できたが、断って戦っても蒋介石が支援してくれるとは限らず、その場合第29軍の戦力を損ない、結果的に蒋介石に吸収される恐れがあった。一方で、日本に妥協すれば民衆の支持を失い、蒋介石からの非難も予想でき、やはり自己の権力を失う恐れがあった。宋哲元が取れる策は玉虫色の解決でうやむやにしてしまうことであったが、日本政府と蒋介石国民政府との間で対立が深まり、困難な舵取りを要求されることになった。
現地で停戦協定が結ばれたといっても、緊張状態は続き、日本軍による空襲や強硬な要求、中国軍からの発砲などで小競り合いは頻発した。そして郎坊事件(1937/7/25-26*1)を経た広安門事件(1937/7/26)の起きた当日、7月26日、香月清司支那駐屯軍司令官が強硬な最後通牒を発し、北平に対する包囲網を狭める態勢を取ってきた*2ことから、7月28日午前8時、北平南苑で大規模な戦闘が発生する。第29軍兵士の他、学生たちも参加した戦闘は、爆撃機も投入した日本軍の勝利に終わり、多くの犠牲者を出した。南苑で敗れた宋哲元は北平退去を決意して、部下の張自忠(第38師師長)に北平市長職を委ね南方の保定に向けて撤退する(7月28日)。
一方、北平東方にあった通州、順義で7月29日、日本の傀儡政権・冀東防共自治政府の保安隊が反乱を起こした*3が、北平の戦いで第29軍が敗れたことから反乱部隊は第29軍に合流すべく西方に撤退した。
同時期の7月29日朝に天津で対日攻撃が開始されたが、日本軍は航空機を用いて天津市街を爆撃し市民もろともに中国軍(第38師)を撃破、天津を占領した。北平・天津を攻略した日本軍は、華北の重要都市を支配下に収め一旦戦火は落ち着くかに見えた。しかし、蒋介石直系の湯恩伯率いる中央軍(第89師、第4師)が北平に迫りつつあり、また、日本軍の天津爆撃などを非難する声が国際的にも高まってくると、日本は通州で邦人が犠牲になったことを宣伝に利用し、反中国熱を煽り始めた。

*1:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20110528/1306603710

*2:7月27日に、通州、団河、湯山を日本軍が占領ないし駐留中国軍部隊を排除。

*3:通州では張慶余、張硯田、順義では蘇連章が指導。