第19路軍の上海付近移駐

第一次上海事変で活躍した蔡廷鍇の第19路軍がなぜ上海付近にいたかについて、日本側は1932年当時から中国軍が租界攻撃をもくろんでいるとのデマを流し、現在においてもこれを信じる者がいるほどである。
Wikipediaの「第一次上海事変」では以下のように記述されている。

1932年、上海市郊外に、蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れた。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上に達していた。蔡廷鍇は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も蔡廷鍇を警戒していた。

実際に第19路軍が上海付近に移駐したのは1931年10月であって1932年ではないし、19路軍の3個師団のうち司令部と61師は南京、鎮江に、60師は蘇州、常州に駐留し、上海付近に駐留したのは78師だけである。
また、第19路軍は1931年8月に江西省中共軍と戦い、約3000人の死傷者を出す大損害をこうむっており、移駐は再編成を目的としたものに過ぎなかった。
蔡廷鍇は「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と語ったとあるが、これは組織上正しく「偽り」ではない。
蔡廷鍇と第19路軍は広東系軍閥のひとつで1927年の南昌起義で中共から離脱して以来、蒋介石の下で中共軍と戦っている。しかし、蒋介石共産党討伐の意図が地方軍と中共軍の共食いであることは明白であり、その意味で蒋介石と蔡廷鍇がうまくいっていないことは確かである。
そのため、日本軍の圧力により上海でも譲歩を重ねようとしている蒋介石に対して、蔡廷鍇は抗日姿勢を示し日本の圧力に最後まで抵抗した。

1932年1月28日午後2時、中国側の呉鉄城上海市長は日本の村井総領事に対し日本側の要求を全面的に受諾した。これにより、29日には第19路軍は上海付近から撤退することになった。にもかかわらず、午後8時半、日本海軍司令官塩沢幸一少将は、閘北地区への陸戦隊派兵を布告する。この布告が呉鉄城に届いたのは午後11時25分。中国側は対応する余裕も無く陸戦隊の進駐が開始され、日本軍の進駐を知りえなかった中国軍前線の警備部隊は日本軍と衝突、戦端が開かれた。

昭和7年2月10日の枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」大角海軍大臣発言では以下のように日本側の視点で述べている。

北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。

日本軍の進駐が一方的であったこと、中国側に撤退の余裕なく現地には19路軍がいて当然であることについては触れていない。