南京大虐殺とはどういう事件だったか

1937年12月13日、侵攻してきた日本軍の攻撃により中華民国の首都・南京が陥落した。
南京防衛軍は崩壊し一部の部隊が日本軍の包囲網を破っての撤退に成功したが、多くは壊滅した。
南京の中国軍防衛線は南京城の城壁を最終的な防衛ラインとし、それを城外の丘陵地に築いた陣地で防御する複郭構造となっている。南京陥落間際になると外郭陣地では部隊が孤立したり、士気が崩壊したりし、防御していた部隊が南京城に向けて後退したり、兵士が四散して逃れたり、あるいは白旗を掲げて日本軍に降伏したりしている。

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中国側外郭陣地の崩壊に乗じて、南京城に攻め込もうとする日本軍は、降伏してきた多くの中国軍兵士の処遇に困り、その場で射殺・刺殺したり、一時的に拘留した後にまとめて集団処刑したりしている。
幕府山の虐殺や馬群の虐殺、百人斬りなどはこのようにして起こっている。

京城方面に後退して逃れようとした中国兵は、下関で追い詰められ抵抗できないまま追撃してきた日本軍により殲滅されている。この時、白旗を掲げて降伏した中国兵もその場で殺害されている。冬の長江に飛び込んで対岸に逃れようとした中国兵は、岸壁からの日本軍の射撃や遡航してきた駆逐艦上からの射撃でそのまま殺害された。
南京西方に逃れようとする中国兵と民衆も回り込んできた日本軍によりまとめて殺害されている。

南京が陥落し下関を封鎖された後、南京城内には安全区に避難していた難民や安全区以外にいた民衆、逃げそこなった中国敗残兵が残っていた。陥落直後に行った日本軍による城内掃蕩で敗残兵狩りが行われ、青年・壮年男性が多数摘発され、下関の岸壁や城壁附近などで次々と殺害された。幕府山事件のように城外で捕虜にし収容していた中国兵を江岸でまとめて処刑されたのもこの頃である。
また、この時期、戦勝気分の日本兵は南京城内の建物から金目のものを略奪したり、隠れている中国人女性を拉致・強姦したりといった暴行を繰り返した。多くの難民が避難していた安全区も女性を拉致するターゲットとなり、度々日本兵による侵入・暴行・拉致・強姦が起きている。安全区は外国人が管理していたため、この種の暴行行為は多くが記録されている。
捕虜の殺害は南京陥落初期に起きているが、敗残兵狩りや略奪・暴行・強姦はその後も頻発し陥落から6週間程度も続いた。


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