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証言・李玉善

従軍慰安婦

イ・オクソン(李玉善)・ハルモニの証言(<特集>戦後60年・ポスト北京の10年)
女性学評論 [巻号一覧]
女性学評論 20, 69-78, 2006-03-31

神戸女学院大学

イ・オクソン(李玉善)・ハルモニの証言

 私は韓国のナヌムの家から参りましたイ・オクソンと申します。年は80になります*1
 皆さんにこういうお話をすることに、私はとても申し訳ない気持ちもございます。申し訳ないし、恥ずかしいことも沢山あります。けれども、私が死ぬまでにこうした歴史的事実を皆さんにお伝えしたいし、残していかなくてはいけないと感じております。こういったことは、二度と戦争が起こらないようにするためにも必要なことだと、私は感じております。
 私は韓国人です。釜山で生まれました。15年間釜山で育ちました。7歳のころ、とても学校に通いたかったんですけれども、家庭事情があまりよくなかったので、学校に通うことができませんでした。
 15歳くらいで、家庭事情によって、蔚山(ウルサン)という韓国の南にある所へ養女に出されました。そこで暮らしている時に、ある日、そこの主人のお使いで市内に出ました。けれども、市内に出たところで、知らない男2人に連れて行かれました。その時の男性2人は、日本人なのか朝鮮人なのかわかりませんでした。1人は日本語を喋っており、もう1人は朝鮮人かなと思われました。15歳の幼い子どもでしたから、到底抵抗しきれずに捕まえられて、腕を引っ張って連れて行かれました。行ったら角のところに大きなトラックがあり、トラックは中から外が見られないように、テントなどが張られていました。私は荷物のように投げ込まれました。
 荷台に打ち付けられたので、あまりにも痛くて泣き出すほどでした。泣き終わって起きて見たら、その中は私だけではなくて、他の5人がいて、私を合わせて6人の女性がいました。
 泣きながら家に帰してくれと訴えたけれども、そうすればするほど、手を縛られたり、足を縛られたりしました。晩に汽車に乗ってどこかへ連れて行かれました。乗っている間は、アメリカ行きの汽車なのか、中国行きの汽車なのか、日本行きの汽車なのかも知らされておらず、その汽車はどこにも止まらず、結局中国行きだったんですね。
 中国に到着したのは、図們(トムン、吉林省)というところです。そこに到着して寝たのが、コンクリートではられた暗くて、寒い牢屋のような部屋だったんです。とても寒くて寂しかったです。6人一緒に行ったんです。けれども、あとの5人は一緒に過ごして、私だけが1人部屋に入れられたんですね。別に日本に対して悪い事など一つもしていないにもかかわらずです。一人にされて15歳の私としては、とても寂しくて怖かったです。その時あまりにも寒くしんどかったので、私は足を痛めてしまいました。連行されたにもかかわらず、自分の足で行ったのではないか、と誤解されたりしました。(私たちは)12歳から15歳で「慰安所」に連れられて行ったわけで、「慰安所」がどういうことをやっているかもわからなかったです。
 私たち女は、山に草取りに行った時に連行された人もいれば、水汲みに行った時に女の子が連行された場合もあれば、学校で勉強している最中に連行された人もいれば、ただ、家で家事をしている間に連行された人もいれば、いろんな意味で、自分の意思ではなくて、突然連れられていったわけです。男性も女性も沢山人が連れられていきました。穀物などは、供出する場合がありますね。国家に供出する場合があるんですけれども、人間を供出するなんてことはありません。私たちは(ある意味で)人間が供出されたわけです。男は連れられていって強制奉仕をする軍人になりましたし、女性は「慰安婦」にさせられました。日本人の軍人がいるところであれば、どこにでも「慰安婦」がいたと思います。日本は朝鮮の少女たちを強制的に連行しておきながら、そんなことはないと、うそを言いつづけています。
 こうやって連れられていって、図們で一晩寝た後、あまり食べさせてももらえず、ずっとおなかを空かせていました。日本人兵士たちは食堂で、おいしそうなおかずでご飯を食べたりしていました。けれども、私たちはおなかを空かせたままで、連れられていった時の夏服のままで寒さをこらえなければいけませんでした。6人だったんですが、その中で4人はまた別のところに移されて、私を含めて2人はまた汽車に乗ってどこかに行かされました。
 汽車に乗せられて連れていかれたところは、延吉(ヨンギル)という所です。延吉に到着して、東飛行場の中で肉体労働をさせられました。その場所は電気の流れる鉄線で囲まれていて、逃げることが出来ず、逃げようと何度か試みても、電気が通っているので怖いし、焼け死んだ犬の死体などが置かれていたりしました。強制的に働かされ、一切お金をくれたりはしていません。
 こうして電線の張られた場所の中で、強制的に仕事をさせられました。軍人たちがずっと見張っていて、逃げるにも逃げられませんし、死にたくても死ねない状況でした。着るものも連れられていった時の服だったので、夏物ですし、履物もありませんし、仕事をするときに、ちゃんと仕事をしないということで、毎回鞭で打たれたりして、いろんなことろが血まみれな状態で過ごしました。死にたくても死ねませんし、逃げたくても逃げられません。こういう状況で働いておりました。けれども、日本人たちは、ハルモニたちがお金儲けのために「慰安所」へ行ったのではないかと言います。これはどういうことなのかと、私は問いたいです。
 連れて行かれてからあまり食べさせてももらえず、たまに小麦で作られた饅頭を1つくらい貰いました。けれども、まだ歳も幼い成長期だったので、小麦で作られた饅頭1つではとてもおなかが空きました。とても寒かったし、鞭で打たれながら仕事をして、仕事も大変忙しかったので、体はくたくたな状態でした。仕事は大変忙しかったけれども、晩にはみんなで集まって、どうやって逃げられるかという討論、議論もしたりもして、逃げるための試みも何度か試みました。けれども、逃げようと思ったら、電線に犬の焼け焦げた死体などあったりして、見たら怖くて逃げようとする勇気さえなくなりました。
 仕事が余りにも忙しくて逃げることも出来ず、闘争に励みました。こぶしで壁を打ったり、水を打ったりしながら闘争していたら、軍人たちが来て、私をどこかに連れて行ったんです。その時私はこれで家に帰されるんだと思って、喜んだわけです。飛び跳ねながら喜びました。けれども、家に帰されたわけではなくて、その時に入れられた所が「慰安所」なんです。その時点から「慰安所」に入れられたのです。私は「慰安婦」が何をするところかも知らず、連れられて来たのです。けれども、格好は血まみれになっているし、服は汚いし、泥だらけだし、髪の毛も汚いので、「慰安所」に連れて来られたとき、慰安所の主人は、こんな汚い格好では「慰安婦」として働かせられないと言って、主人のお金で、着物や下駄や足袋を買ってくれたんです。私たちはお金がなかったので、買ってくれるのは、ただでくれるのかなぁと思ったんです。けれども、あなたたちがお金がないから代わりに買ってあげるわけで、あなたたちが「慰安婦」の仕事をして働いて返しなさいという形だったんです。ところがこの借金を返すにしても、私たちは一切お金もらう事はありませんでした。
 その当時13歳から15歳の私たちは、強制的に連行され「慰安婦」にさせられて、一日に40人から50人にあたる軍人の相手をさせられました。話をちゃんと聞いてなかったり、言っていることを聞いてない時は、人を皆立たせておいて刀で刺したり、それでも話を聞いていない時は、その人を刀で刺して死なせたりするわけです。それを私たちが見ているところでその人を刀で死なせたりして、死なせた人を埋葬もせずに、ただ町に捨てるわけです。犬が食べられるようにという意味で、捨てられるわけです。こんな悔しいことがあると思いますか。
 軍人たちは私たちにここで話の出来ないようなこともさせます。しかし、私たちがその言うことを聞かなかったら、刀で体を切り刻んだり、痛めつけたりします。ある日少尉がやってきて、嫌がる私に無理やり相手をさせようとしましたので、反抗すると私のことをひどく殴りつけはじめました。気を失いそうになっても殴られ、それでも私が言う事を聞かないと、今度は刀で私の体を切りつけたのです。(右足の刀傷を会場に向けて見せる)今ご覧になったような傷が、体の中に沢山あります。こういう風にひどい目にあわせるのに、私たちが自分の意思で「慰安所」に行くわけがないです。それなのに、私たちがお金儲けで自分の足で行ったのではないかと日本人たちが言うのは、話にならないと思います。「慰安所」というところが何をするところかも知らず、軍人と遊ぶところなのか、お話をするところなのかもわからない「慰安婦」なのに、自分の足で行ったということはありえないですし、話をしようとしても通じないし、刀で切り刻みながら、暴力的な形で(強姦が)行われる所とも知らないのに、自分の足で行くとは考えられないのに、日本人の方はお金儲けで、売春のために自分で行ったのではないかという話があるのですね。考えられません。
 とても息苦しくてこれでは生きられない、親も兄弟も親戚にも会えず、これでは死んでしまうのではないかと思い、一回機会を見て逃げようと思ったのです。逃げようと思っても逃げられなかったのですが、ある日、機会を見て逃げようと試みたわけです。「慰安所」の中庭はとても広くて、平日はそんなに多くの軍人が来るわけでもなく、中庭に軍人が全部納まるくらいでした。けれども、週末は軍人の休日なので、週末ともなれば、沢山の軍人が来て、中庭いっぱいでは納まらず、門を大きく開いて外まで並ぶわけです。沢山人が並んでいる隙を見て私は逃げようとして、一回逃げました。逃げて外に出てきたら、持ってきたお金は一銭もないし、おなかはすいているし、広い中国の中で道はわからないし、道をさまよいながら逃げました。けれども、逃げてる最中、あちこち道をさまよっている間に軍人に見つかって、「慰安所」に戻されました。逃げられず戻されたわけだから、ひどい目にあうわけです。鞭で殴られたり、すごくひどく殴られながら、「もう逃げないか?」と問いただされましたが、私は、あなたたちがまたこんなにひどいことをするのだから、逃げないわけがないでしょうと思い、「また逃げてやる」と言い返しました。すると、「逃げるのか?」というように、再び鞭で打ったりしました。それでも、降伏しなかったら、今度は憲兵を呼んで、殴ったり蹴ったりするわけです。憲兵の殴り方というのはひどくて、普通の殴り方ではなくて、人間扱いの、規律を違反した罰としての殴り方ではなくて、「朝鮮人は死ね!!!」といわんばかりのようなひどい殴り方です。
 15歳で中国に連れて行かれたわけですから、58年経ちました。2000年になってやっと韓国に戻って来たのですが、お父さんもお母さんももう亡くなっておりますし、親戚も誰もいませんし、私自身も死亡届が出ていて、国籍もない状態でした。一度、元「慰安婦」の人にほんの少しのお金が出されたということから、売春という形で、お金儲けのために「慰安所」に行ったのではないかという話があります。一時間あたりいくらという形でお金をくれるわけですけれども、そのお金はすぐ管理人に渡さなければなりませんし、私たちが渡されたのは、こんな小さな紙切れ1枚だけです。お金儲けに行ったというのはありえない話です。日本人たちはどうして私たちに対してそういうふうに言って、罪を犯した記録を出さないのか、私は問いたいです。私を「慰安婦」として連れて行って強制労働させて「慰安所」に送ったわけだから、私に関する記録があるはずです。「慰安所」にいる時は、日本人の「トミコ」という名前もありましたし、そういう記録が残っているはずなんです。そういう記録はきっと日本の軍隊や部隊で管理しているはずなんですけれども、そういう記録を出さないでいるわけです。さっきの学生さんたちのお話で、記録は焼かれたということを聞きましたが、どこかに残っているその記録を出してほしいです。日本はなぜ隠そうとするのですか。60年経った今でも、私の戦争は終わっていないのです。
 私は戦争が終わったことも知らされず、置き去りにされました。それから55年も、韓国に戻ることができませんでした。戦争が終わって60年以上経ったわけですが、日本では今何をしているのでしょうか。ハルモニたちが皆死ぬことを待っているのでしょうか。ハルモニたちは皆もう80歳を過ぎ、90歳を越えた人もいます。今年でさえも17人のハルモニが死んでいきました。ハルモニたちが死んでいなくなれば、日本人の罪もなくなるとでも思っているのですか。自分たちの罪に対して、ハルモニに謝罪するべきだと思うんです。どうして謝罪しないのですか。日本の政府は、お金の賠償はしていません。日本はお金がないのでしょうか。そうではないでしょう。今きっと日本は、私たちに賠償しないで、私たちに賠償するお金で、新たな戦争をするための準備でもしているのではないのですか。私を含めて、ナヌムの家の人たちに賠償してほしいです。私の場合、ナヌムの家がなかったらどうやって生きていたと思いますか。帰ってきた当初は、戸籍もなければ、両親をはじめ姉妹兄弟のほとんどが亡くなっていました。戸籍を戻したいと思ったんですが、戻すことも出来ませんでした。私をこんな目に合わせて、家族と離散させて、こういう状態にした日本の人たちは、どうして自分たちの罪を認めないのでしょうか。
 ハルモニたちは日本の犬よりも下の身分です。日本で暮らしている犬のほうがよっぽど幸せだと思います。日本の家庭では犬が死んだらちゃんと犬のお墓を作って、私の家族、私たちの犬という形で墓までも造るんですね。けれども、ハルモニたちにはどういうことをしたんですか。いったい何人のハルモニたちが死んでいったと思いますか。何十万人が死んでいきました。死んでいったハルモニたちは、墓もなく死んでいったんです。日本が過去の歴史を認めず、謝罪もせず、こうやっているのはどうしてなんでしょうか。日本の歴史を考えてみてください。さらに最近の日本の事情を見てみてください。最近の日本の学校で学生をレイプしたり、いろんな悪いことが起こっているではないですか。日本人の男性というこのは、どういう人たちなんですか。ちょっと考えてみてください。またさらに、日本で暮らしている在日朝鮮人の学生のことですが、日本でずっと暮らしながら学校にも通っていて、日本で生まれ育ったにもかかわらず、朝鮮人であるということで迫害されたりしているではないですか。日本で生まれ育ったら、同等の権利を与えられるべきではないですか。日本人と同等の権利も与えないのは、在日朝鮮人を余りにも見下しているのではないか、と問いたいです。こういう話を全部含めて戦争と平和を考えてください。ずっと戦争ばかりしていくのですか。平和の道を歩んでほしいです。平和の道を歩むためにも、がんばってほしいです。
 今でも、「慰安婦」として連行されたハルモニたちが中国に残されています。解放を迎えたことも知らず、お金もなく道もわからず、ずっと過ごしていたわけです。解放した後もも余りにも生活が苦しくて、中国で同じく軍隊勤労奉公隊という、軍隊で来た韓国人と結婚して家庭を築いたり、また中国人の男性と家庭を築いたりして、今に至っているわけです。解放を迎えた後、日本の軍人たちは自分たちだけ日本に戻りました。連れて行った時は強制的に「慰安婦」として連れてきたくせに、戻るときはハルモニをそこに置き去りにしたまま、自分たちだけ逃げたというか、戻ったんです。そういうことがあって、「慰安婦」生活をしたハルモニたちは中国にまだ未だに沢山残っているわけです。そういうハルモニたちを、連れて行く時に強制的に連れて行ったのと同じように、今連れ戻してくるのも、日本の政府がやるべきことではありませんか。日本の政府は私たちが嘘をついてると、何を言っているんだ、そんな事実はないんだと歴史を偽っていますが、私たちは嘘をついているわけではありません。嘘をついているのだったら、私のこういう傷はどういうふうに説明すればいいんですか。
 また、ハルモニたちが自分の名誉を回復しようと思って、水曜集会みたいな運動に行ったら、どういうことになるかというと、町中で後ろ指を差しながら、あの人たちが「慰安婦」だった人たちなんだ、あの人たちは今精神がまいっているのだというふうに言われるわけです。私が精神がまいっているのでしょうか。精神がまいっているのであれば、呆けているのであれば、私ははたしてこういう場所に来て、こんな証言ができるでしょうか。私が嘘を喋っていると思いますか。ここにお集まりになった皆さんも考えてみてください。はたして皆さんには責任がないのでしょうか。ここにお集まりになった皆さんにも、私たちハルモニの、ナヌムの家のハルモニの問題に対して、解決を見出す責任があるのではないでしょうか。
 ただ単純にお金をくださいと言っているのではありません。皆さんが責任をもって私たちの問題が解決できるように、力を合わせてほしいです。私を応援してほしいです。ここに集まった皆さん一人ひとりが責任を感じて、私たちを応援してくれることが、私たちの問題解決に一歩近づくのではないでしょうか。
 日本は韓国を脅迫し侵略して36年間も支配したわけです。血の涙が流されました。その36年間の支配というのは血まみれの支配であり、解放を迎えて60年になった今でも、日本は自分たちの行った悪行を謝罪しないでいるのではないでしょうか。日本は、はたしていくらで補償できるんだと思いますか。36年間の血まみれの歴史を一体いくらで補償できるんだと思っているのですか。それをお金に換算できると思いますか。日本政府はハルモニたちのところに来て土下座をして謝罪するべきです。お金で換算できないわけでしょう。せめてハルモニたちの前に来て土下座して謝罪してほしいです。この36年間流した血に対する賠償をしなければならないと思います。
 私は中国に行って58年間ひどい生活を送ったわけです。山に登って首吊り自殺を試みたこともありますし、薬を飲んだこともあります。結局自殺せずに済んだわけですが、このような私の歴史も悲惨なものです。朝鮮人も日本人も人間としてなら同じです。日本の人は良心があるのなら謝罪するべきですし、補償すべきです。ハルモニたちが死ぬことを待ち望んでいるのですか。ハルモニたちが死ぬまで待っているんですか。聞きたいです。ハルモニたちは歳をとっていくし、もう大分高齢になっています。ハルモニたちの“恨(ハン)”を解くという意味において、賠償するべきだと私は思います。そういうことのために、この場でお集まりになった皆さん一人一人に解決の責任があると言いたいです。私たちを応援してください。闘ってください。補償を働きかけてください。補償してください。

http://ci.nii.ac.jp/els/110005050294.pdf

講演

2006年11月19日
元「従軍慰安婦」にさせられ、今は「ナヌムの家」で共同生活をする李玉善(イ・オクソン)さんの講演に行ってきました。
【写真は李玉善ハルモニに駆け寄る若い女性たち】

「戦争を超え、平和に向かって手をつなごう!」という講演でした。
ハルモニ(朝鮮語でおばあさんの意味)に会いに、会議室いっぱいの200人が参加し、立ち見の人もたくさんいました。ユメウツツも立ち見です。李玉善さんは79歳の女性です。
1942年(15歳のとき)、買い物に行く途中に日本人と中国人の男に捕まり、トラックの荷台に押し込まれ汽車で中国の延吉にある日本軍飛行場に連れて行かれました。そこで重労働の傍ら強姦されました。
逃げようとしたり泣いたりしたら、しばられ、足を蹴られ、今でもハルモニはその足の傷が痛みます。1943年、今度は延吉市内の慰安所に連れて行かれ、「トミコ」と名づけられ、日本の着物を着せられ「慰安婦」として働かされました。コンドームを使わない将校を拒否すると気を失うまで殴られました。
死ぬほど殴られて歯が折れました。
逃げようとしたり反抗すれば、刀で切られる、刀先で突かれそのままえぐられる、足を刺される。
ハルモニはいくつか残る腕と足の傷を見せてくれました。
ハルモニのいた「慰安所」で、逃げようとしたため裸にされ、胸を刀で切り取られ、刺し殺された女性がいたそうです。自殺者もたくさんいたそうです。1945年8月、「解放」の日を迎えるものの、「慰安婦」らは解放されません。日本軍は「慰安婦」らを置き去りにしました。ハルモニは、生きるために現地で結婚しました。
故郷や両親のことを思って帰りたくとも帰れず、字が書けないため手紙もおくれませんでした。夫が亡くなった2000年、58年ぶりに祖国、釜山に帰りました。
両親とは会えませんでした。
今は「従軍慰安婦」にさせられたハルモニたちが暮らすナヌムの家で共にくらしています。ハルモニは、怒りを込めて講演でうったえられました。
『日本軍は少女に対し何をしたのか。一体どんな思いか、日本政府はわかるのか。朝鮮人慰安婦」は子どもばかりだった。結婚もしていない、男性の相手もしたことのない子どもに何をさせたのか。少女が1日に10人も数十人も男性に性暴力を受けることがどういうことかわかるのか。なぜ私がみなさんの前でこんなことを言わなければならないのか。』

http://aanduosaka.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_cfab.html

2013年7月報道

記事入力 : 2013/07/17 09:47
慰安婦:「慰安所はと殺場のようだった」
李玉善さんが訪米、慰安婦としての体験語る

慰安婦:「慰安所はと殺場のようだった」
 「15歳のとき、近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された。それから3年間いた場所は、人が住む所ではなく『と殺場』だった」
 米国ニュージャージー州バーゲン郡庁舎の会議室で15日午前(現地時間)、元慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さん(86)が70年ほど前のつらい経験を打ち明けた。李さんは「筆舌に尽くし難い苦痛を被った。家族と連絡を取ることができず、毎日強制的に日本軍人の相手をさせられた。自殺さえできなかった」と振り返った。
 慰安所から逃げ出して捕まり、連れ戻されたこともあったという。日本軍の憲兵は「二度と逃げられないようにしてやる」と言って軍刀を李さんの腕や足に打ち下ろした。李さんが袖をまくると、右腕に4−5センチの刀痕が2本くっきりと現れた。
 証言を聞いていたキャサリン・ドノバン郡長たちの目に涙がにじんだ。ドノバン郡長は証言を終えた李さんに花束を手渡し、肩を抱いた。
 李さんは在米韓国人の利益団体「市民参与センター」の招きで訪米。この日、ドノバン郡長の案内で、バーゲン郡の裁判所前に建立された慰安婦犠牲者を追悼する「慰安婦の碑」を訪れた。李さんは花を供えた後、しばらく無言で碑石を見詰めていた。碑石の銅板には英語で「第2次世界大戦の際、日本帝国主義の軍隊により性的奴隷にさせられた韓国と中国、台湾、フィリピン、オランダ、インドネシア出身の数十万人の女性と少女たちを追悼する」と記されている。
 この慰安婦の碑は昨年10月に来韓したドノバン郡長が元慰安婦たちと面会し、建立を約束したもので、今年3月に設置された。同裁判所の前には米国の奴隷制度の犠牲になった黒人、ナチスに虐殺されたユダヤ人、英国の収奪に苦しめられたアイルランド人など全世界の人権被害者を悼む碑石が置かれている。
 ドノバン郡長は庁舎で李さんを迎え入れながら「韓国での約束を守れてうれしい。李さんを案内できて光栄だ」と語った。李さんは「日本からの謝罪がないことがずっと無念だったが、米国でこんな風に私たちを記憶してくれて感謝する。恨みがずいぶん晴れた」と答えた。李さんは同日午後、ニュージャージー州パリセイズパーク市にある米国で最初に設置された慰安婦の碑も訪問した。
ニューヨーク=張祥鎮(チャン・サンジン)特派員
朝鮮日報朝鮮日報日本語版

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/17/2013071700733.html

*1:韓国では四捨五入して年齢を伝える時があります。「もうすぐ80歳だ」というぐらいにとらえてください。イ・オクソン・ハルモニは戸籍では1928年生まれですから、実際は77歳です。かぞえ年では78歳です。(矢嶋)