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金田君子の証言

従軍慰安婦

父のこと
 私が14歳の時父が神社参拝をしないからと警察に連行された。私は弟たちの世話とか、家の手伝い掃除をしなければならないので、学校に行きたいという考えも余裕もなかった。
 14歳の時父が日本の高等警察に連れていかれた。父は日本語が上手だったので、これからは信徒を連れて神社参拝するからと、嘘をついて、家に帰った。電気拷問された足のやけどを治療しているうちに、神社参拝しないからといって、再び警察が父を捕えに、明け方4時ごろやって来た。その時父は教会でお祈りをしていた。私は飛び起きて、知らせに走った。
 「父さん逃げてよ。また警察が来たよ」当時教会の周りは田んぼや畑で、その向こうに日本人の集落があった。父はお祈りをやめて、そこを通って逃げた。大邸に出て、慶北の城州に済む叔母を訪ね、そこに隠れ住んだ。

中国へ連れて行かれて
 明け方4時の汽車に乗り山海関まで行った。2時間ほど汽車が止まったので、私とよし子は逃げようとした。しかし出入口には憲兵が見張っていて、怖くなり、もどってきた。汽車の中で一晩寝て、2日目の11時ごろ天津駅に到着した。天津駅に降りると、完全武装の軍人たちがトラック1台、馬車1台、それにジープ車1台を出して待機していた。私たちは馬車に乗せられた。馬車に乗せられて北站という所に連れて行かれた。
 北站のある家に着くと、女達が数人いて、ひしめきあっていた。その近くには日本の軍隊がいて、討伐に出たり入ったりしていて、恐かった。その日10人ずつ配置された私たちはナツメキョウ(棗強)に行かされた。行ってみると、城の中に日本軍がいて、私たち全員は部隊の中に連れて行かれた。そして軍隊の食堂に入れられた。みんな地べたに座りこんだ。

慰安婦にさせられる
 どんな気持ちだったかって。もう殺されに来たんだと思え、泣くしかなかった。話をする人はなかった。泣くだけだった。部隊で一晩寝て、次の日からその部屋に入れられた。兵隊が部屋に入って来たが、死んでもいうことをきかなかった。最初の兵隊は酔ってなかった。服を脱がそうと、ひっぱられたが、ダメだといったら、帰っていった。二番目の兵隊は酔っぱらって入って来た。酔っぱらっていて、刀を見せながら、言うことをきかないと殺すと脅した。だけど死んでもいいと、言うことをきかなかったので、結局刺されてしまった。ここを刺された(胸を開いて指す)。刺された瞬間、私が後ろに倒れたので、この程度の傷で終わった。その兵隊は憲兵隊に連行され、私は衛生室に連れて行かれた。着ていた服が血に染まった。20日間衛生室で治療をうけた。
 ふたたび自分の部屋に戻ると、討伐から帰った兵隊がやって来た。20日間治療をうけたので、胸の傷は良くなって、バンソコウを貼っていた。それなのにまた兵士が襲ってきた。恐かったが、言うことを聞かなかったので、兵士は私の手首をひねって、部屋の中から外へ投げとばした。だがら私の手首は骨が折れて、バラバラになっている。ここで折れて、ここには骨がない。今も痛むので手術しようとしても、年をとっているから、治せないって言われた。ここは軍靴で蹴られ、肉がさけ、骨が見えた(すねをさす)。今も傷跡が残っている。だがら、足に力がなく、ころびそうで、とても痛む。

石家荘の慰安所
 朝から夜まで兵隊を相手にした。15人以内だった。討伐から帰ったときは、朝早くから来た。多い日は20人位になった。だからあとで子宮を(20代で)摘出するようになった。幼い娘たち、国民学校5,6年、中学校高校くらいの少女を連れてきても、性器が小さいでしょう。あそこがバラバラになって、菌が入り、薬といえばロクロク(性病予防の薬606号)と赤チンキしかなかった。だから膿んで治療できない。そういう時は中国人労働者に防空壕に草をたくさん敷かせて、そこに病人を入れた。布団もない。下は土なのだ。軍隊の命ずるままに中に入れられた。当時は電気はなく、ランプだった。防空壕にはランプもくれなかった。だから真っ暗な中で、「母さん腹すいたよ!母さん痛いよ」と叫んでいた。
 私たちが残り飯をもっていきたくても、頭がおかしくなった者もいるし、体の悪い者、肺病にかかっている者、こんな人ばかりで、恐ろしくて行けない。灯があれば、行けるけど、灯もないので、入れなかった。つかまって、放してくれなければ、どうするか。だから、私たちも中に入れなかった。何人かが死ぬと、娘たちは恐ろしいから、叫びはじめた。すると、みな一緒にして、防空壕に薬をいれて、殺してしまい、埋めてしまった。埋めてから、その横に新しい防空壕を掘り、また病人が出れば、そこに入れたのだ。

死んでいく兵隊たち
 軍人たちも月に数百人が負傷して帰り、死んで部隊に帰ってきた。運動場の広場に板を敷いて天幕を張り、そこで死んだ兵隊、負傷した兵隊を寝かせた。「痛いよ」と兵隊はうめいている。生きる望みのある人には、水をやらないで、アルコールをつけた綿で口をふいてやり、モルヒネ注射がおいてあるので、それを射ってあげると眠るよ。重傷者には2本うちますよ。モルヒネをうつと、痛い痛いとうめかないで、眠ります。後で注射が切れると、私の服をつかんで、ふだんは金田君子と呼ぶのに、その時は「姉さん」と呼びますよ。「姉さん、もう一回頼むよ」って。かわいそうで、また射ってあげると、また眠る。そして死んでいく時は、「天皇陛下万歳」と言って、死ぬ人は一人もいなかった。自分の母さんや妻、子供の写真を見ながら、「母さん、俺は死ぬかもしれないけど、死んだら靖国神社で会いましょう」と言って、泣くよ。私もつられて泣いた。
 だから、靖国神社がどんなによくできたところかと思った。靖国神社の花の下に行くと言っていたので、行ってみたが、何もない。白い鳩しかいなかった。私はそこに座り込んで、黙って考えた。軍人たちは昔自分が死ぬと、靖国神社の花の下に行くと言っていたのに、白い鳩が恨となって、ここにいるのだろうと私は思った。心が痛くて、自販機で買ったエサをやると、鳩は私の手までとまって、エサを食べていた。

http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html