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江蘇省の戦い

1938年 江蘇省

江蘇省は長江河口にある。1937年の上海戦〜南京戦で江蘇省の長江南岸部分(蘇南)は、ほぼ日本軍に占領された。
南京占領後、日本軍は江蘇省北西部にある交通の要衝・徐州の攻略を目指す徐州作戦を開始する。
南京の対岸から北上を開始した日本軍中支那派遣軍*1主力の陽動として、第101師団による長江北岸の江蘇省への進攻が開始された。第101師団は上海戦で大きな損害を受け南京戦には参加せず、杭州の占領や上海の警備に従事していた。

1938年3月・佐藤支隊(第101旅団)による蘇中・蘇北進攻

第101師団*2麾下の第101旅団の旅団長佐藤正三郎少将を支隊長とする佐藤支隊は、第101連隊*3に第149連隊*4の第2大隊*5他、砲兵、工兵、輜重を付けた一個旅団弱の兵力であった。
第101連隊は、3月17日、南通附近の天生港に上陸し、第149連隊第2大隊は4月1日に通州*6に入っている*7
佐藤支隊は、菜の花が咲き乱れる中、南通・通州から如皋を経て東台までほとんど抵抗らしい抵抗を受けず進軍したが、東台城の攻略から中国正規軍の激しい抵抗を受けるようになる。
佐藤支隊の目的は、阜寧方面から徐州攻略を行うように見せかけ中国軍をひきつける陽動であった。阜寧は、南通の北約300キロの地点である。この300キロをわずか1個旅団弱の兵力で急進撃したため、後方連絡線は中国軍の残存部隊で充満していた。日本軍は部落部落にせいぜい1〜2個分隊から1個小隊程度が警備についているに過ぎなかった。

1938年4月・第149連隊第2大隊の佐藤支隊(第101旅団)追求

滬西地区の警備についていた第149連隊第2大隊は3月28日、佐藤支隊の指揮下に入り3月30日駐屯地を出発、4月1日に天生港に上陸した。如皋に達すると残敵掃討の命を受け、東進し、李堡鎮*8、栟茶鎮*9に侵攻したが、栟茶鎮で第2大隊第6中隊*10中国軍の反撃にあい苦戦、辛うじて救援隊に助けられている。
4月13日、第2大隊は塩城への進撃命令を受け北上、24日に西団*11で300程度の中国軍と交戦したものの若干の戦闘のみで進軍を続け、26日には南洋鎮*12を経て、28日正午に塩城に入り、佐藤支隊と合流した。

1938年5月・阜寧の攻防戦

佐藤支隊は阜寧を攻略すべく塩城から北上を開始したが、後方補給路は寸断され阜寧周辺の中国軍の抵抗も激しくなった。
この方面の中国軍を率いていたのは第24集団軍である。
塩城から阜寧までの間には、上岡鎮や溝安墩*13などの拠点があり激戦が展開された。溝安墩手前では旅団司令部が中国軍に包囲され危機的状況に陥ったが、別ルートを進撃していた第2大隊が救援に駆けつけ形勢逆転、一気に阜寧城手前まで迫った。
5月4日から佐藤支隊は阜寧城攻撃を開始、激戦の末5月7日、中国軍は西門から撤退し、阜寧城は陥落した。

しかし、阜寧城を攻略しても城外は敵で充満しており、輜重部隊が頻繁に襲撃され、小部落を警備している部隊が攻撃されていた。
このため、阜寧陥落前の5月5日、上海の第157連隊から第1大隊*14を佐藤支隊救援に向わせた。この増援部隊は、如皋、東台の警備を佐藤支隊と共同で行った。
さらに5月16日に第149連隊の主力をも海路、射陽河経由で阜寧城に送り(到着は5月24日)、徐州から撤退してきた部隊で増強された中国軍と、北沙郷*15、や新溝鎮*16で交戦した。
佐藤支隊と津田部隊は、約1ヶ月にわたって江蘇省北部、中部で中国軍と戦ったが、補給線が維持できない状況の不利から6月24日、撤退を開始した。武漢攻略のための転進と畠山清行の「東京兵団」では書かれているが、実態としては敵中に孤立した部隊を維持するのが困難であったからだろう。
佐藤支隊・津田部隊は陸路南下し、橋を焼き払い撤退した。

日本軍の撤退により、江蘇省北部・中部は蒋介石国民政府の支配域として残った。江蘇省政府主席として第89軍軍長の韓徳勤が任じられている。
一方で、日本軍は3月に成立させた傀儡政権・中華民国維新政府の管轄下に江蘇省浙江省安徽省、上海特別市、南京特別市を組み入れた。

*1:1938年2月14日編成、司令官・畑俊六

*2:師団長・伊東政喜

*3:連隊長・飯塚国五郎

*4:連隊長・津田辰参

*5:大隊長・沢多亮

*6:南通の東隣

*7:「東京兵団 下」畠山清行、P253

*8:如皋市の北東20キロ、海安県の東方10キロほどにある小部落

*9:如皋市の東30キロほどにある小部落

*10:中隊長・渡辺正

*11:大車市南方10キロほどの西団鎮

*12:塩城北西10キロ地点

*13:現・溝墩鎮

*14:大隊長・柴田一、増援には第1中隊と第3中隊の2個中隊を充てた。

*15:阜寧県北西約20キロ

*16:阜寧県西方約5キロ