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通州事件の報道

通州事件とは、1937年7月29日に日本の傀儡政権である冀東防共自治政府所属の保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊及び冀東政府関連施設を攻撃した事件を指し、その際日本人居留民にも多くの犠牲者が出ている。
事件直後の8月には、日本陸軍通州事件をプロパガンダとして大々的に報道するよう指示を出しており、これを受けて日本国内を初め日本の勢力圏下で残虐性を強調した報道が繰り返された*1

通州事件報道は日中戦争初期において、中国に対する敵愾心を日本国民に植え付けるためのプロパガンダとして大きな効果を上げている。通州事件は戦後も日本の中国侵略を正当化ないし日本側の責任を軽減する文脈で多用されたが、戦後日本国民に1937年12月の南京事件が知られたため、中国侵略の正当化としての効果はほぼ消滅した*2
戦後経済成長が始まると、正当化、反省を問わず、戦争の話題そのものに対する興味が一般国民から急速に薄らいでいったが、1970年ごろになると中華人民共和国との国交回復関連から戦争認識が再び話題となり、本田勝一が「中国の旅」を発表すると大きな反響を呼ぶことになる。「中国の旅」は一般国民に対して南京大虐殺の事実を再認識させたが、右翼や旧軍関係者、そのシンパは南京大虐殺の事実を否定ないし正当化しようと歴史修正主義的反論を展開し始め、ここに南京大虐殺論争が始まることになる。
この歴史修正主義的反論で多用されたのが、通州事件である。
通州事件については、事件当時の1937年8月ごろの各種日本国内報道など資料には事欠かなかったが、資料の量はともかく質については問題が多い。というのも、1937年当時の報道はほとんど日本軍当局の発表に基づくため、日本軍による意図的な情報操作の影響から免れ得ないためである。特に事件における日本軍の対応などについては詳細はほとんど報道されていない。
詳細はほとんど報道されなかった理由は、日本軍側の不手際を追及されることを恐れたためだろう。

日本軍守備隊の失態

通州には事件当時、約400人程度の日本人*3が居住していたが、それを守るべき日本軍は約100人存在していた。居留民の規模からすれば、守備隊の数は多いといえる。しかも居留民は半数以上が殺害されたのに対し、日本軍守備隊は半数以上が生き残っている。さらに通州付近の他の日本軍部隊も、29日昼ごろには通州で異変が起こっていることに気づいていたにも関らず救援に到着したのは事件発生から30時間以上も経った翌30日夕方であった。
当時、日本軍は北京*4で戦っていたが、通州まではわずか10キロ程度に過ぎず3時間の行軍で到達できる距離である。

これらの詳細が報道されていれば、いかに冀東政府保安隊の反乱が原因とは言え、日本国内でも軍の不手際を責める声があがったであろう。
しかし、実際には日本軍の不手際は報道されず、代わりに殺害の状況や生存者の証言などが繰り返し詳細に報道された。中には被害者特有の誇張や誤解、混乱の見られる証言も少なくないが、そのようなことは問題とはされなかった。

残虐報道の背景

通州事件報道は殺害手口の残虐性を強調する扇情的なものがほとんどであったが、その背景には当時の日本国内におけるエロ・グロ・ナンセンスの風潮があると見るべきだろう。
報道記事や証言の中には明らかに不自然な描写が多いが、殺害そのものは事実だろうがその手法についてはエログロ世相を反映した誇張がされていると見られる。日本軍当局も公式発表にあたって軍の不手際を糊塗するために、過剰に殺害方法の残虐性を強調した可能性が高い。
通州事件の10日後のことになるが類例として、上海で起きた大山事件に際し上海の海軍陸戦隊本部の重村は実際の検死報告以上に多数の傷があったと報道記者に語っている。当時の状況から考えて重村の話は捏造の可能性が高い。この大山事件の際もなぜ大山勇夫中尉が虹橋飛行場付近にいたのかについて海軍陸戦隊は曖昧にしているが、そこから目を反らすために殺害手口の残虐性を強調したのだろう。

*1:アジア歴史資料センター通州事件其他に関する報道の件」(昭和12年 「陸支密大日記 第11号)、レファレンスコード:C04120102000

*2:終戦直後は国民全般に反軍反戦の気持ちが強かった点も、中国侵略の正当化が受け入れにくかった理由として考えられるだろう。

*3:朝鮮人を含む

*4:当時は「北平」