読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

犬の皮供出の証言

臣民根性の行き着く果て―「戦時犬猫供出」」に関連する証言として。
川越市霞ヶ関公民館発行の「一人ひとりの戦争体験」よりM氏*1の「恐ろしかった犬の皮の供出」(139-140ページ)。

(略)
 終戦も間近い昭和十九年頃だったと思いますが、霞ヶ関村へ犬の皮を供出するよう上から指示がありました。これは野犬ではなく飼犬をです。犬の皮もまた軍の必要な物資だったのでしょう。それに人間の食糧さえ乏しい時代でしたから、特に生産に寄与していない動物は食糧の無駄になると考えられたのかも知れません。その頃近くの村に野犬を捕まえる人がおり、役場ではこの人に頼んで殺してもらいました。犬を殺したのは延命寺近くのお寺橋の下(小畔川)でした。小畔川の橋の下なら犬を殺したとき血を流すのに川の側が都合が良かったからでしょう。
 可愛がっていた犬を綱でつないで引いて行った飼主はどんなにか辛かったことでしょう。お寺橋近くまで引いて行くと犬は力の限り抵抗した、と後日飼主が涙ながらに話してくれました。
 こうして殺された犬はお腹のところから裂いて皮を剥がされ、その皮は役場に持ち込まれて天日で乾かされました。役場の堀の中側に手足を開いた形で貼り付けられました(二十頭位)。それを悲しく恐ろしい思いで眺めたことを、私は今でもはっきりと覚えています。
 供出するのは皮だけで、肉は飼主に返されてました。当時は食糧難の時代でしたから、どこの家庭でも肉類は貴重品でしたが、さすがに愛犬の肉は食べるのにしのびず、お互いに肉を交換して食べたそうです。今考えれば悲しい恐ろしい出来事ですが、当時としては個人的にはどうにもならない上からの命令だったのです。

臣民根性の行き着く果て―「戦時犬猫供出」」では引用している毎日新聞*2によると、1944年12月17日には「犬すべて供出と献納 皮革は重要な軍用資源に」という見出しで、需省が翌年3月まで供出運動の全国展開を決めた、とある。
M氏は「昭和十九年頃」と書いており、時期的にはほぼ符号する。M氏の話は、1944年暮れから1945年春頃までのことと思われる。

*1:原本では実名

*2:『戦後70年/3 犬猫供出 タマは毛皮になったのか』 毎日新聞 2012年8月12日