張家口戦役・南口戦役

1937年7月末に北京を攻略した日本軍は、8月8日北京西方の要衝、張家口以東の攻略を開始する。これは関東軍の強い要望に参謀本部が折れた結果でもある。

北京から張家口に向うにはまず居庸関を超えねばならない。日本軍は8月11日、独立混成第11旅団をこの居庸関に向ける。居庸関のある南口鎮には、湯恩伯の率いる有力な中国軍が陣地を固め、激しく抵抗したため独立混成第11旅団だけでは居庸関を突破できなかった。

一方、8月10日には天津方面の残敵掃討を終えた混成旅団を出発させている。旅団長は本多政材で、部隊は第1師団の第1連隊、第3連隊、第57連隊から一部を抽出し、野砲兵第4連隊の一部を加えた混成部隊である。目的地は、天津から山海関を越え、長城の外側に沿って西にある熱河省承徳。そこから徴発した自動車に乗って砂漠を西へ横断し、8月19日に張北に到着する。張北は張家口の北40kmにある町である。
張北方面にはすでに篠原少将率いる混成旅団が到着していた。篠原旅団は、第2師団の第16連隊、第30連隊の主力で編成されている。
これら、本多旅団と篠原旅団を合わせて作戦を開始する。これを指揮したのが関東軍参謀長、東条英機。正式な編成ではない「東条兵団」の誕生である。
8月20日、東条兵団は張北から張家口に向って侵攻を開始する。

同じ頃、南口鎮でも激戦が続いていた。日本軍には板垣征四郎中将率いる第5師団が攻撃に加わっている。

8月24日東条兵団は張家口近くに迫り、市街地西南の八角台に篭った中国軍攻撃の準備にかかる。しかし、八角台は堅固な陣地が築かれ、劉汝明率いる第29軍が防衛していた。
8月25日から八角台を巡って激戦が展開され、8月27日朝遂に中国軍が撤退を開始する。残敵掃討を終えた東条兵団本多旅団は8月29日、張家口市街を無血占領した。

南口鎮での戦いも8月26日までに日本軍は居庸関を突破、26日八達嶺を占領している。南口鎮周辺には湯恩伯の有力な部隊が残っていたが、張家口が日本軍に占領され、後背を脅かされたため、大同にあってこの方面の中国軍を指揮していた傳作儀第7集団軍総司令は、湯恩伯に対し南口各戦線からの撤退と山西省雁北方面への転進を命じた。