第二次山海関事件に関する「蒋介石秘録」の記述

装甲列車で強行突破
 第二回目の衝突は十二月八日である。この日午後十時、こんどは関東軍第八師団の装甲列車が突然、山海関の長城の切れ口まで進出し、第九旅司令部付近目がけて四発の砲弾を発射した。装甲列車はさらに南進して関内を侵し、石河の鉄橋付近まで進み、山海関城内に十数発の砲撃を続けた。
 中国軍側は日本軍の守備隊長・落合甚九郎に抗議、交渉のすえ、装甲列車はいちおう九日午前二時発砲を停止、撤収した。
 しかし、明け方、多数の武装した日本人が秦皇島の山海関税関におしかけ、中国の衛兵をなぐり、貨物を奪ったり器物をこわすという乱暴を働いた。
 中国側はこの間、事件の拡大を防ぐために応戦をいっさい禁止、一発の銃弾も撃たずに解決を交渉にゆだねた。
 この事件は外交交渉に移され、外交部長・羅文幹は、十二月十一日、日本外相・内田康哉に抗議したが、内田は二十九日、「装甲列車は石炭と水の補給のために山海関に向かおうとしたが、中国側が故なく発砲したので応射した」と、まったく事実に反する回答をしてきて、日本軍の責任を認めようとしなかった。

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関連:第二次山海関事件の概略 - 15年戦争史

*1:蒋介石秘録10 毛沢東の敗走」P57