戦時中の暴力団

 37年、《日中戦争》が勃発するとともに、同年、政府は「国民精神総動員運動」を起こし、戦争遂行のために挙国一致・尽忠報国堅忍持久を訴えた。さらに、40年、政党解党によって〈大政翼賛会〉が設立されるに至って、無法地帯での大陸ゴロを除いて、もはや右翼も独自に活動する余地はなくなってしまった。また、38年の「国家総動員法」によって、ほとんどの事業は政府統制となり、また、組織員を取締や徴兵によって失い、一般にヤクザも動きが取れなくなっていった。賭博はあいかわらず非合法に開かれたが、客は減らざるをえなかった。そして、やむなく軍事関係の工事などを下請して組織を維持した。太平洋戦争も始って、国内労働力が不足すると、軍事関係の工事のために、朝鮮人自主移住者に加えて、朝鮮人強制連行者を調達して奴隷のように使用するようになっていったが、この調達や管理に大陸ゴロや新興愚連隊が協力した。このような朝鮮人労働者管理としては、警視庁とも協力関係にあった土建愚連隊の大安組(安藤明)などが有名である。
 40年、鶴酒藤兄弟会が横浜に拠点を移すと、山口は同会神戸支部長となった。しかし、彼は港湾荷役事業に関心がなく、また、戦争によってすぐに港湾荷役は政府統制を受け、あまり意味を持たなかった。また、同40年、広沢虎造の映画出演問題で、山口は篭寅組に急襲されて重傷を受け、42年、41歳で死亡した。翌43年、田岡は出所したが、すでに戦時下にあって取締や徴兵によってほとんど組員は残っておらず、なすすべもなかった。一方、その後の稲川は、あいかわらずの暴れぶりであったため、加藤と兄弟分で関東きっての大親分である鶴岡政次郎の綱島一家に預かりとなっていた。また、右翼青年の児玉誉士夫は、37年に仮釈放になると、外務省情報局のスパイとなり、大陸や東南アジアに「児玉機関」の諜報ネットワークを形成しつつ、大陸ゴロとして戦略物資を掠奪的に調達して利潤を蓄積した。そして、彼は、終戦時には、34歳にして海軍少将、東久迩宮首相参与にまで成り上がっていた。一方、右翼の巨頭であった頭山は、44年、89歳で死亡していた。

http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/paper/hpaper/1992yakuza.pdf