戦前の暴力団

 32年、山口登(31)は田岡一雄(20)を子分とした。また、彼は先代同様に浪花節のファンであったので、この景気回復とナショナリズムに合せて、新たな資金源として娯楽的な浪曲興行を考え、33年には山口組興行部を作った。さらに、翌34年、彼は吉本興業の創始者である吉本せい(48)と共に、浪花節興行の希望を浅草の元締である浪速屋金蔵に会い、広沢虎造の吉本専属契約を取り付けた。そして、まさにこのころから浪曲は最盛期を迎え、「清水の次郎長」「国定忠治」「人生劇場」などが講談や歌謡曲とともに流行したのである。37年、田岡一雄(24)は不良組員を斬殺し、懲役8年の刑に服することとなった。また、同年、神戸港荷役を支配する鶴井組(広田寿太郎)、酒井組(酒井新太郎)、藤原組(藤原光次郎)の組長が「鶴酒藤」兄弟会を結成したが、山口登もこれらの組長と兄弟縁組を行った。
 同じころ、横浜の柔道吉田道場に通っていた稲川角二(19)は、33年、警察の内定を振って片瀬の博徒の堀井一家(加藤伝兵衛)の子分となった。ここにおいて、彼は横山新次郎を兄分として修業したが、35年には徴兵を受け、軍隊で2年を過ごした。彼は37年に除隊になると堀井一家に戻ったが、この兵役中の勢力変化のために闇打を受け、重傷を負わされた。

http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/paper/hpaper/1992yakuza.pdf