旧日本軍組織温存のための戦い1・根本博の略歴

根本博は1941年3月以降、満州東部国境警備についている。当初は第24師団長として、戦局が悪化した1944年2月以降は第3軍司令官として(第24師団は南方に引き抜かれた)。
着任当時、東北抗日連軍の組織的活動はほぼ壊滅状態にあり、また1941年7月の関東軍特種演習と称する対ソ戦準備のため、兵力は充実し治安は比較的よかった。
しかし、戦争後半、ソ連がドイツ侵攻による危機的状況から立ち直るとソ満国境を挟んだ工作が活発化し、さらに1944年から次々と関東軍主力が南方へ引き抜かれるに至って、治安は急速に悪化した。
1944年11月駐蒙軍司令官として内蒙古に着任するが、ここでも八路軍の遊撃戦に手を焼くことになる。こうした経緯や大佐・少将時代に華北で対中共工作を行った経験から、根本には強い反共思想が植えつけられていた。
その結果、8月15日の日本の終戦宣言を経ても、8月9日に対日宣戦布告しモンゴル軍と共に侵攻してきたソ連軍に対する降伏を拒絶した。
当時、駐蒙軍が駐留していた蒙古自治邦の首都は張家口で、ここには約4万人の日本人が居住していた。
8月15日以後も侵攻を続けたソ連軍に対し、根本率いる駐蒙軍は果敢に応戦し、奇跡的に4万の邦人を無事万里の長城を越え、天津にたどり着いた。
この根本ら駐蒙軍の防戦を過剰に評価する主張もあるが、実際にはソ連軍の主力は満州方面に志向し、内蒙古方面には大した戦力を割いておらず、ソ連軍自身に追撃の意欲がなかった点を考慮すべきだろう。
ソ連は既にヤルタ協定外モンゴル独立の中国による承認と満州権益を手に入れており、引き換えに満州を除く中国内政に関与しないことになっていた。そのため、ソ連にとって内蒙古侵攻はついでに過ぎず、本腰を入れて戦うような戦場ではなかった。
ソ連にとっては、日本軍が武装解除しても逃げても構わなかったのである。
根本らが必死で逃げたのは、今まで弾圧してきた中共軍の捕虜になるよりは国民党軍の捕虜になる方が、徳王のつてを利用できる分有利であると判断したためと言える。結果として後のシベリア抑留を回避できたのは、彼らにとって幸運であった。

根本らは国民党軍に降伏し、約1年後の1946年8月に復員している。
この間、1945年8月から、山西省で国民党軍に降伏していた澄田中将の第1軍が国民党側に着いて中共軍と戦闘行動に入っており、日本では陸海軍が廃止されている。1946年には公職追放令が出るなど、戦犯指名の恐れもある高級軍人にとっては過酷な政治状況であった。
こうした状況の中で、反共志向の強い軍人グループは、日本軍の温存策を考え始める。その一人が澄田賚四郎第1軍司令官であり、第1軍将兵を国民党軍の傭兵として差し出すことで軍組織の温存を図ったのである。
根本も同様であった。北京滞在中に下級将校をたきつけ、接収前の武装を持たせた兵士を中共軍と戦わせたのである。その中には、中共軍の捕虜となり長期にわたって抑留された兵士も少なくなかったが、根本自身は1946年8月、さっさと復員している。
根本が復員した1946年ころはまだ日本軍復活などは考えられなかったが、国共内戦における国民党の敗北が決定的になる1949年には日本再軍備の芽が出始めていた。日本再軍備実現を見越した根本ら元高級将校は、1949年5月非公式な軍事顧問として台湾に渡る。
日本再軍備が実現し反共同盟が成れば、密航も軍事協力も追認されることを見越した行動であった。