孫元良の略歴

第二次上海事変で孫元良は精鋭部隊である第88師を率いて日本軍と戦った。閘北陣地を76日間にわたって堅守した。第88師は大きな損害を被り、何度も補充されたが最後には新兵しか補充されなくなっている。1937年10月26日に大場鎮が陥落。上海戦区からの撤退にあたって、第3戦区副司令長官・顧祝同の命により第88師から一個団(連隊)を後衛に残すことにする。第524団。これが謝晋元率いる八百壮士であり、四行倉庫を死守したことで知られている。
南京まで後退した孫元良は、第88師師長と第72軍軍長を兼任して、安徳門、雨花台、中華門一帯の防衛を担当した。12月11日、既に大損害を受けていた第88師では防衛範囲を縮小するしかないと考えた孫元良は唐生智に提言するが受け入れられず、結果として第88師と第51師の間に空白地帯が出来たまま、攻防戦に突入することになる。南京攻防戦が始まると、程なく第88師は潰走し、第51師と同士討ちした上、第87師の敗走部隊と共に南京城内を北上したが、宋希濂の第36師に押し返されてしまう。
その後、唐生智が各部隊に包囲突破の上撤退する旨の命令を出したが、第88師には撤退できる能力は残っていなかった。
南京攻防戦での第88師の損害は、旅長2人、団長3人、営長11人が戦死、連長・排長の8割が死傷、当初6000人余りいた兵員のうち南京戦後に復帰できたのはわずか500人に過ぎなかった。その後、孫元良は600人を率いて包囲を突破し、龍潭付近で長江を渡り、泰興、淮陰、徐州、鄭州を1938年3月に武漢にたどり着いたと書き残している。しかし、一説によると南京大虐殺が行われている間、ラーベに匿われており、その後脱出したとも言われている。
1939年1月から軍役を離れるものの、1944年5月26日には、第31集団軍副総司令官(兼第29軍軍長)として復帰、桂柳会戦(大陸打通作戦の一部)に参加し12月には丹寨で日本軍の攻撃を退けた。