読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

百団大戦の概要

1940年 百団大戦

作戦日誌で綴る支那事変 (1978年)
P442

4、中共軍の奇襲(百団大戦)

(1)、中共軍奇襲攻撃の概要(中共軍の資料による)

支那軍の団は、日本軍の連隊に相当する部隊の名称である。八月二十日夜、中共軍は百個連隊余の兵力を以てわが軍に対し、奇襲的に大攻勢を行ったので、彼等自らこれを百団大戦と云った。百というのは概数であって、きっぱり百ではない。中共側の記録によれば、百十五個団、四十万の中共軍と外に広大な地域の民兵が参加したと称している。中共は、本作船の目的および概要を次の如く述べている。

 汪精衛が日本に投降してから、国内は対日抗戦に動揺を来し、徹底抗戦を主張する中国共産党を弾圧して投降和平を招来しようとする潮流が全国に拡がって来た。こうした反共投降の高まりを予察した中共中央は百団大戦を発動し、偉大なる勝利によって反共投降派の理論を粉砕し、全国人民の抗戦信念を堅固にし、また一方では国共関係の調整交渉において、主導的に解決案を国民党に提示した。さらに軍事目的としては、日本軍の対共弾圧を打破し、奥地進攻作戦を阻止した。
 一九四〇年はヒットラー電撃戦により西欧を席捲し、国際ファシストが最も活発に行動した年である。中国ではビルマルートが閉鎖され、国民党地区では投降妥協する気運が蔓延し、反共の逆流が高まってきた。日寇は西安昆明重慶への進攻を企図して画策し、中国に投降を迫り、その上で米英の極東勢力に打撃を与え、ヒットラーに呼応しようとする陰謀をたくらんでいた。このような時期に行ったのが八路軍の百団大戦である。
 八月二十日から十二月五日まで行われたこの大戦は、当初八路軍百十五個団、四十万の兵力が中心となって参戦し、全戦線同時に攻撃を開始した。進攻目標は華北の各主要交通線であり、攻撃重点は正太線であって、作戦地域は冀察全域、晋綏の大部、熱南地区に亙る大規模なものであった。
 本作戦の特色は、従来の遊撃戦と異なり、大兵力を以て遂行したこと、事前にわが企図を全く察知せられることなく全線において同時に奇襲したこと、これは計画が一ヵ月前に完成し、各軍区が敵情地形の偵察、兵力部署、道路の選択、爆破器材の準備、宣伝品の作成、武装団体や住民の動員、補給物資の集積移送等の諸準備が周到に行われたことによる。本作船の戦闘は激烈を極め、わが損害も甚大であったが、敵の死傷は我に数倍し、敵の心胆を寒からしめた、これにより敵の囚籠政策(中共地区を封鎖し孤立させ区分撃滅を図る方策)を打破し、敵の北西進攻と重慶の南西退避を阻止するとともに当時の対日投降妥協への逆流を阻止した。

  第一段階
 中心任務は交通破壊戦である。攻撃目標は石太(石家荘―太原)、同蒲、平漢、津浦、北寧(山海関―北平)、平綏(北平―綏遠)、京古(北京―古北口)、石徳(石家荘―徳州)の各鉄道、代蔚(代県―蔚県)、滄石(河北省中部の滄県―石家荘)、平遼(山西省東南部の平定―遼県)の各公路であり、打撃の重点は石太鉄道であった。戦いは、八月二十日夜二十時から九月十日まで二十一日間連続して行われ、わが予定計画を完遂した。
  第二段階
 この段階は陣地戦であり、九月二十二日から十月上旬までとする。わが軍は第一段階の戦果を拡大するため、作戦重点を敵の殲滅、交通線両側や解放区内に喰いこんで敵拠点を消滅することにおかれた。その中大きな戦闘は、楡社、遼県、晋察冀の淶源、霊邱、冀中の任邱の各戦闘、冀南の石徳線、邯済公路の破壊、晋西北の同蒲線寧武附近の襲撃破壊等である。
  第三段階
 第一、第二段階の作戦により華北の敵を大混乱に陥れた。敵は憂慮と憤怒のあまり急ぎ大軍を動員し、わが華北各解放区に対し報復の掃蕩を進めてきた。これに対するわが反掃蕩が繰返された。これが百団大戦の第三段階を構成したのである。この段階は十月六日から十二月五日までの約二ヵ月にわたり、まず太行山区に始まり、平西、晋西北、晋察冀、雁北、太岳、冀南、大青山などの地区に及んだ。
 戦果と影響
 三ヵ月半にわたるこの大戦は、緊張と苦難の連続であった。全期を通じ交戦回数一八二四、敵の死傷は日本軍二〇六四五、偽軍五一五五名、捕虜は日本軍二八一名、偽軍一八四〇〇名、攻略した敵守備拠点二九九三個、鹵獲した小銃五四〇〇挺、軽機関銃二百余挺、破壊した鉄道九四八支里、公路三千支里、橋梁、駅、トンネル等二〇六カ所、鉄道工人二〇〇〇名等を解放した。
 わが軍も死傷二二〇〇〇余名を出した。
 この作戦間、友軍である国民党軍からは何の協同も得られず、補給も受けられなかった。衛立煌将軍は晋南の部隊に協同を命じたが、蒋介石の命令により中止し、わが軍との摩擦造りに多忙であった。
 百団大戦が内外に与えた影響は極めて大きいものがあった。政治的には国際情勢の大変化に際し、国内頑固派を投降させようとする敵の陰謀を打破し、頑固派の妥協の暗流を阻止して人心を奮起させた。軍事的には敵の囚籠政策を打破し、さらに奥地に進攻しようとする敵の大兵力を牽制し、交通線を破壊してその後足を引っ張った。
 以上が中共軍発表の資料による彼等のいう百団大戦の概貌であるが、この資料はずっと後でわが方が入手したものである。而して中共側の述べているところの大筋はその通りであったが、わが方に与えた損害などは過度に誇張されていて、実際と大きく異なる。この中共軍の奇襲は成功し、わが北支方面軍の諸部隊にかなり大きな衝撃を与えたことは事実である。しかしこの作戦が行われている昭和十五年中は、前記のように、まとまった中共側の状況はわが方にはわかっていなかった。

(2)、中共の奇襲に対するわが北支那方面軍の状況

 北支那方面軍は既述の如く、時日の推移とともに中共軍に対する認識を深め、昭和十五年七月頃においては北支の治安粛正上最大の癌的存在として中共軍を見るに至り、討伐作戦においても多くの場合中共軍を目標としてその潰滅を狙っていた。しかし中共軍の実力は未だそれ程に大きなものでなく、その戦法も遊撃戦を主体とするものであって、わが軍の攻撃に会えば退避四散する外なく、まとまった部隊をもってわれに対し攻撃をとることはできないと見ていた。
 百団大戦による中共の奇襲作戦は、全くわが軍の右の如き観察の意表に出で、文字通り虚を衝いたものであった。この中共軍の奇襲作戦によって、受けた北支那方面軍の衝撃は大きかった。この痛い経験によって、わが方は中共軍に対する認識を新たにし、情報機能を画期的に刷新し、治安粛正の方策を抜本的に改善向上することに努め、逐次その成果を上げることができたのであった。
 北支那方面軍作戦記録には、左の如く記述されている。
 「北支一体ニ蟠踞セル共産軍ハ第十八集団軍総司令朱徳ノ部署ニ基キ『百団大戦』ヲ呼唱シ、昭和十五年八月二十日夜ヲ期シテ一斉ニ我交通線及生産地域(主トシテ鉱山)ニ対シ奇襲ヲ実施シ、特ニ山西省ニ於テ其勢熾烈ニシテ、石太線及ビ北部同蒲線ノ警備隊ヲ襲撃スルト同時ニ、鉄道、橋梁及ビ通信施設ヲ爆破又ハ破壊シ、井陘炭坑等ノ設備ヲ徹底的ニ毀損セリ。本奇襲ハ我軍ノ全ク予期セザル所ニシテ其ノ損害モ甚大ニシテ、復旧ニ多大ノ日時ト巨額ヲ要セリ・・・」
 我方は中共の第一次攻勢(八月二十日夜―九月上旬)に対して、即時応戦して、これを撃破すると共に、第一次の反撃作戦(九月一日―九月十八日の第一期晋中作戦)を行い、中共の第二次攻撃(九月二十二日―十月上旬)に対して直ちに応戦すると共に、第二次反撃作戦(九月二十三日―十月十一日の察南南境反撃、十月十一日―十二月四日の第二期晋中作戦、および十月十三日―十一月二十六日の晋察冀辺区粛正作戦)を行った。これ等の作戦によって、中共軍の根拠に対し相当の覆滅的効果を発揮することができた。
 中共軍の攻勢の状況、これに対する我軍の反撃作戦の詳述は省略するが、ただそれ等の中で特筆すべき件を一、二略記しておきたい。記述の如く北支那方面軍は北支の特殊状況に処し、治安対策として各部隊は極端ともいうべき小部隊毎の分散配置をとっていた。従って個々の分散配置部隊(小隊乃至分隊)は、著しく優勢な中共軍の奇襲的攻撃を受けたのである(例えば重要資源である製鉄用の石炭産地の井径炭坑は、歩兵一個分隊(十三名)の守備に対しおそらく一個大隊(三―四百名?)前後の兵力の攻撃を受けた)。如何に善戦しても衆寡敵せず。恨を呑んで全滅した部隊が少なくなかった。
 その善戦敢闘に対して中共軍は、「この地の日本守備隊はよく戦いたり」と書き残して去った場所もあった。また堅固な城壁を利用し、周到な防禦戦備を整えていた部隊は、数十倍の敵の攻撃に対し、友軍の来援まで数日間、巧妙な戦法を以て敵に大きな損害を与えつつ持ちこたえたものもあった。中共軍は後に百団大戦の教訓を整理し、日本軍の優れた点を列挙し、「我等日本軍に学ばざるべからず」と強調した部分もあった。
 次は我軍の反撃作戦時の状況の一端であるが、支那の民衆が中共軍の戦闘に決死的な協力をしている場面があった。戦火の中で女、子供まで弾運び、糧食補給に挺身従事していたという(筆者も事変当初山西においてこのような実況を見たことを既に述べた)。とにかくこの事変勃発前まで、排日抗日に燃えていた民族である。日本の侵入を受けた後、その敵愾心が鈍るわけがない。特に中共は民心の把握に努力していた。それは同じ民族、同じ国民の間のことである。中京勢力の滲透は防止し難いものがあったのである。
  × × ×
 以上百団大戦に対する記述は極めて概貌に過ぎないが、とにかく北支那方面軍としては、この思いもかけぬ中共の大兵力を以てする奇襲は大きな衝撃であった。この苦い経験によって、方面軍としては中共に対する従来の観念を根本から改め、敵情ならびにわが対策に関して深刻な検討を行い、中共の状況をほぼ適確に把握し、わが治安諸施策もそれに相応する如く進歩向上するに努めた。その効果は次第に現われ、昭和十六、十七の二カ年間において、北支における中共の勢力を著しく減退せしめ、治安状態は大きく改善せられた。