「「ホウヘイ前へ」事件」は誇張

産経新聞の田村秀男記者が、2007年と2015年の二度言及している「「ホウヘイ前へ」事件」というのがある。

【国際政治経済学入門】日中通貨戦争の教訓

(2007年5月21日記事(※:引用者がネット上に転載されたものを参照したもので、産経のURLからの直接の引用ではない))
 そこで、65年前の1942年5月6日、この黄土高原の一角の窰洞で日中戦争の帰趨を左右しかねなかった会談が開かれた。
 特命を帯びて対中和平工作に奔走した陸軍中野学校出身の井崎喜代太氏の回顧録によると、日本軍の第一軍司令官若松義雄中将と、中国山西軍の閻錫山将軍が会談。若松中将は山西軍にラッパで迎えられ、 閻将軍とにこやかに握手、和平協定が成立したかのように見えた。
 当時、閻将軍は重慶蒋介石国民党政府に協力していたが、旧知の若松中将の誘いに乗って、日本軍の影響下にあった南京の汪兆銘政府と合作し、反蒋介石で連合することを約束していた。歴史に「もしも」はないが、実現すれば日本軍・汪兆銘政権連合は中国の黄河以北(華北)を取り込んで、戦況を一挙に有利に導き、蒋介石との和睦交渉の道を開いたかもしれない。
 山西軍との和平条件は、資金援助である。村の入り口では、国民党政府の通貨「法幣」4000万元の札束を積んだ駄馬隊が待機。「会談成功」という合図を確認した駄馬隊の隊長が「ホウヘイ前へ」と大きな声で号令。駄馬隊が一斉に動き出し、洞窟めざして前進する。ところが洞窟警備の閻軍護衛隊長の報告を聞いた閻将軍は血相を変えて裏口から逃げ出した。日本の陸軍士官学校を卒業した閻錫山やその配下の一部は日本語を理解できる。そのせいで、「法幣(中国語の発音ではファピー)」を「砲兵(同パオピン)」と取り違え、日本軍がだまし討ちしてきたとあわてたからである。
 この「ホウヘイ前へ」事件で工作は失敗し、日本軍は中国大陸でいよいよ泥沼にはまった。

http://www.sankei.co.jp/keizai/kseisaku/070521/ksk070521000.htm

人民元の勢力拡大は日本にとって軍事的脅威そのもの

2015.08.14
 1942年5月6日、この黄土高原の一角の窰洞で日中戦争の帰趨(きすう)を左右しかけた会談が開かれた。
 特命を帯びて対中和平工作に奔走した陸軍中野学校出身の井崎喜代太氏の回顧録によると、日本軍の第一軍司令官、岩松義雄中将と、中国山西軍の閻錫山(えん・しゃくざん)将軍が会談。岩松中将は山西軍にラッパで迎えられ、閻将軍とにこやかに握手、和平協定が成立寸前だった。
 当時、閻将軍は重慶蒋介石国民党政府に協力していたが、旧知の岩松中将の誘いに乗って、日本軍の影響下にあった南京の汪兆銘政府と合作し、反蒋介石で連合することを約束していた。歴史に「もしも」はないが、実現すれば日本軍・汪兆銘政権連合は中国の黄河以北(華北)を取り込んで、戦況を一挙に有利に導き、蒋介石との和睦交渉の道を開いたかもしれない。対米戦争の局面も大きく変わっただろう。
 山西軍との和平条件は、資金援助である。村の入り口では、国民党政府の通貨「法幣」4000万元の札束を積んだ駄馬隊が待機。「会談成功」という合図を確認した駄馬隊の隊長が「ホウヘイ前へ」と大きな声で号令。駄馬隊が一斉に動き出し、洞窟めざして前進する。
 これをみて、閻将軍は血相を変えて裏口から逃げ出した。閻錫山の通訳が「法幣(中国語の発音ではファピー)」を「砲兵(同パオピン)」と取り違え、「砲兵(パオピン)がくるぞ」と大声で叫んだからだ。日本軍がだまし討ちしてきたと、誤解したのだ。
 「ホウヘイ前へ」事件で閻錫山取り込み工作は失敗し、日本軍は中国大陸でいよいよ泥沼にはまった。

http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20150814/ecn1508141140004-n1.htm

岩松義雄中将の氏名が2007年記事では“若”松となっている*1以外は内容は同じで、出典が「井崎喜代太氏の回顧録」である。
しかし、このエピソードは不自然な点が多い。
日本軍が「法幣」を「ホウヘイ」と発音したことを中国軍が「砲兵」と勘違いして成功していた会談が破談になったなど、まるで落語のオチのようで真実味がなく、実際にこのような誤解が起きていたとしても、会談自体が成功していたなら日本側は直ちに誤解を解くべく交渉しただろうし、中国側も実際に「砲兵」がいないことを確認すればそれで済むはずだろう。
岩松と閻錫山の間の交渉は、1941年6月からほぼ一年かけて続けられていて*2、1941年9月の時点で基本協定・停戦協定が成立している*3ものの、閻錫山自身は日本側を警戒している。
日本側の目的は単純に山西軍を戦線から切り離すだけではなく、汪精衛と同じく国民政府の切り崩しと日本側への取り込みであって、閻錫山が日本側と講和したと大々的に宣伝することにあった。この1942年5月の会談前にそういう動きがリークされており、閻錫山は中国民衆からも疑われる状況になっていた。仮に日本と合作するなら、相当の条件が必要だっただろう。

会談直後の閻錫山側と岩松側のやり取りが残っている。

軍司令官、参謀長ヨリ閻錫山、趙承綬、王靖国宛電

  五月十一日夜
亜洲同盟ハ今次大東亜戦争ニヨリ着々実現中ナリ、同憂具眼ノ士ハ自ラ犠牲ヲ分担シテ合流協力シツツアリ。今次ノ会見ニ於テ貴方合作ノ心アルモ自ラノ力量ヲ提テ協力スルノ 物資ヲ貪ルノ慾大ニシテ我方ノ負担之ニ耐ユル能ハズ茲ニ晋綏軍ノ三省ヲ勧告シ我ハ自由行動ニ出デントス。今後ノ結果ハ天自ラ能ク之ヲ定メン
  岩松、花谷

趙承綬ヨリ軍司令官、参謀長宛電 五月十三日

岩松、花谷両先生大■
五月十一日貴電了承ス、物資大ナルハ基本協定ニ定メラレアリテ決シテ当方ノ貪リニ非ズ、此ノ理極メテ明瞭ニシテ先生必ズヤ諒セラルルコトナラン。
今回ノ会見ニ於テ貴方ガ盡ク食言シタルハ遺憾■スルヲ免レズ
小生ハ終始誠懇ヲ以テ其ノ間ニ尽力セリ、甚ダ■■トス。

軍司令官ヨリ伯宛電(通告) (五月十四日)

汾南地区ノ晋綏軍ヲ十六日正子「夜十二時」(日本時間)迄ニ三界荘邢家庄、陽平村、北午芹、白草里ヲ連ヌル山麓以北ニ撤退セシムベシ
若シ撤退セザル場合ハ日本軍ハ之ヲ攻撃ス
右通告ス

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C11110425600

この記録と「「ホウヘイ前へ」事件」はどうしても整合しないだろう。
そもそも「井崎喜代太氏の回顧録」と田村記者が呼んでいるものだが、「日中和平工作の系譜−諸交渉の全経緯」のことであって中野学校出身の井崎喜代太氏が日中戦争中の交渉における裏話的なものであって「回顧録」とは言えない。「日中和平工作の系譜−諸交渉の全経緯」で挙げられている内容は、時期的に井崎喜代太氏が知りえない交渉が含まれており、自身の体験による回顧録と言うより、関係者やそのまた関係者を経た裏話・誇張程度と見るべき。少なくとも他の情報と整合しない限り、噂話くらいに考えるべきだ。

書籍名  日中和平工作の系譜−諸交渉の全経緯
著者名  井崎 喜代太
著者紹介 陸軍中野学校。第13軍司令部付(上海)。
発行社  ?創造書房
総頁数  260
定価・頒価  
発行日  平成02年02月02日 1990
判サイズ(mm×mm) 185 128
貸出料金 480円

自序
昭和6年〜8年(1931〜1933)
 ◎「壌外必須安内」
 ◎中国ナショナリズム
昭和9年(1934)
 ◎中共「全国民衆に告げる書」
 ◎天羽声明 ◎「敵か友か?」
昭和10年(1935)
 ◎蒋介石鈴木武官会談
 ◎梅津・何応欽協定
 ◎五者の証言 ◎中共「8・1宣言」
 ◎中国の対日三原則
 ◎広田対華三原則
 ◎リース・ロスの幣制改革
 ◎蒋介石の重要演説
 ◎知日派唐有任の最後
昭和11年(1936)
 ◎蒋介石・磯谷武官会談
 ◎海軍の「対支時局処理方針覚」
 ◎綏遠事件 ◎西安事件
昭和12年(1937)
 ◎秋山定輔らの使者蒋・汪と会談
 ◎坑日建国の基本戦略決定
 ◎国府、盧山弁事処設置
 ◎盧溝橋事件−不拡大派の敗北
 ◎「最後の関頭」
 ◎近衛・蒋会談実現せず
 ◎ビスマルクの故智
 ◎三ケ師団動員−北支事変へ
 ◎船津工作
 ◎日本、戦争目的を闡明−不拡大方針放棄
 ◎英国調停の意図を示す
 ◎辰巳駐英武官報
 ◎トラウトマン工作
 ◎国府の内幕 ◎目標を南京に修正
 ◎「按兵不動」 ◎国府、重慶遷都
昭和13年(1938)
 ◎「爾後国民政府を対手とせず」
 ◎近衛声明に統師部は反対
 ◎総長宮の深夜上奏
 ◎徐州作戦−不拡大方針一揶
 ◎張群、宇垣外相に電報
 ◎高宗武−西・松本会談
 ◎香港総領事−孔祥熙の代表
 ◎本年中に戦争目的達成
 ◎高宗武アジア局長来日
 ◎「対支謀略」決定
 ◎英米に対日和平斡旋以来
 ◎対支特別委員会
 ◎土肥原機関 ◎呉佩佩工作
 ◎新呉佩孚工作
 ◎重慶交渉の分類 ◎転守為攻
 ◎東亜新秩序声明
 ◎蒋介石、英国に援助を訴える
 ◎日華重光堂会談
 ◎日支新関系調整方針
 ◎大本営、長期持久に傾く
 ◎近衛三原則を声明
 ◎蒋、近衛声明を反駁
 ◎汪兆銘ハノイで通電(艶電)
昭和14年(1939)
 ◎菅野長知らの和平活動
 ◎欄機関 ◎汪兆銘工作−梅機関
 ◎小野寺機関
 ◎支那派遣軍曹司令部設置
 ◎新中央政府樹立進展
 ◎重慶軍の冬季総反攻
 ◎日華国交調整要項(「内約」)
 ◎影佐少佐の苦衷
 ◎汪兆銘の政治信条
 ◎影佐の中国観及び蒋介石
 ◎蒋・汪の力関係
 ◎蒋・汪の対日観及びその終着
 ◎内約暴露と陶希聖書簡
 ◎桐工作開始 ◎スチュワート路線
 ◎銭永銘工作(松岡工作)
 ◎リッペンドロップ−陳介大使
 ◎長期大持久を構想−和平条件更に厳しく
 ◎日米英ソ支の基本的考え方
昭和16年(1941)
 ◎皖南事件
 ◎戦争か平和かの御前会議
 ◎対伯工作(閻錫工作)
 ◎開戦に伴う対重慶方策
 ◎香港で中国要人抑留
 ◎米英中軍事同盟
昭和17年(1942)
 ◎連合国中国戦区を説く
 ◎重慶政権の動向判断
 ◎重慶軍困難に直面
 ◎岩松・閻会談−「ホウヘイ前へ!」
 ◎対伯工作の教訓
 ◎対支処理根本方針
 ◎開戦後の日中接触
昭和18年(1943)
 ◎カサブランカ会談−対中増援決定
 ◎南京政府重慶工作を決定
 ◎米英ビルマ反攻計画策定
 ◎米英との関係を清算せよ
 ◎重慶継戦能力判断
 ◎出路は支那問題の解決
 ◎南京政府解消論
昭和19年(1944)
 ◎大陸打通作戦(1号作戦)
 ◎重慶の態度漸次硬化
 ◎沂東沿岸の米支連絡
 ◎重慶工作は総理直轄
 ◎満州を除き全て譲歩
 ◎天皇「飽くまで正道を以てせよ」と
 ◎柴山次官を南京に派遣
 ◎南京政府要人たちの保身
 ◎顧宝安との会談
 ◎現地統括者を総司令時に
昭和20年(1945)
 ◎岡村大将重慶進攻を具申
 ◎支那派遣軍の主敵を米軍に転換
 ◎レド公路中国まで開通
 ◎繆斌工作 ◎繆斌の其の後
 ◎今井・何柱国会談
 ◎整理−管見
  和平条件の整理
  管見
   ・「延安政権」の呼称
   ・明治の功臣に遠く及ばず
   ・降伏交渉は重慶
   ・最後の繰り言
あとがき/利用資料/年表

http://library.main.jp/index/jst03846.htm

【国際政治経済学入門】日中通貨戦争の教訓

 昨年11月、中国山西省南部臨汾市の西方に広がる黄河沿いの標高1200メートルの黄土高原を訪ねた。
風雨や大小無数の黄河の支流が高原を気ままに削り、崖や峡谷をつくる。
そんな山あいの村々には今でも「窰洞(ヤオトン)」と呼ばれる横穴式洞窟の住居が点在する。
 そこで、65年前の1942年5月6日、この黄土高原の一角の窰洞で日中戦争の帰趨を左右しかねなかった会談が開かれた。
 特命を帯びて対中和平工作に奔走した陸軍中野学校出身の井崎喜代太氏の回顧録によると、
日本軍の第一軍司令官若松義雄中将と、中国山西軍の閻錫山将軍が会談。若松中将は山西軍にラッパで迎えられ、
閻将軍とにこやかに握手、和平協定が成立したかのように見えた。
 当時、閻将軍は重慶蒋介石国民党政府に協力していたが、旧知の若松中将の誘いに乗って、
日本軍の影響下にあった南京の汪兆銘政府と合作し、反蒋介石で連合することを約束していた。
歴史に「もしも」はないが、実現すれば日本軍・汪兆銘政権連合は中国の黄河以北(華北)を取り込んで、
戦況を一挙に有利に導き、蒋介石との和睦交渉の道を開いたかもしれない。
 山西軍との和平条件は、資金援助である。村の入り口では、国民党政府の通貨「法幣」4000万元の札束を積んだ駄馬隊が待機。
「会談成功」という合図を確認した駄馬隊の隊長が「ホウヘイ前へ」と大きな声で号令。駄馬隊が一斉に動き出し、洞窟めざして前進する。
ところが洞窟警備の閻軍護衛隊長の報告を聞いた閻将軍は血相を変えて裏口から逃げ出した。
日本の陸軍士官学校を卒業した閻錫山やその配下の一部は日本語を理解できる。そのせいで、
「法幣(中国語の発音ではファピー)」を「砲兵(同パオピン)」と取り違え、日本軍がだまし討ちしてきたとあわてたからである。
 この「ホウヘイ前へ」事件で工作は失敗し、日本軍は中国大陸でいよいよ泥沼にはまった。
 ここで、カギになったのは「法幣」である。本連載コラムの前回「偽札と戦争」で日本軍は中国での通貨戦争で法幣に負けていたので、
法幣の偽造に躍起となったエピソードを紹介したが、法幣はここでも登場する。
日本の軍票汪兆銘政権の銀行券は信用力がなく、閻錫山は大半の和解金を「法幣」で請求した。
日本軍はそれを「ホウヘイ」と発音したためにしくじった。
 時代が変わって、今では国際的に人民元の値打ちが上がっている。
東南アジアでは人民元の現金が歓迎され、広東省ではこれまで長く流通してきた香港ドル札の受取りをタクシー運転手に拒絶されるようになった。
北朝鮮は今や人民元の偽札作りに励んでいるとも聞く。
 通貨は信用がないと通用しない。極端な場合、単なる紙切れとみなされ、
日本軍の軍票や日本の支配下の銀行券のように中国で通用しない。
国民党はもともと、1935年英米の支援を受けて法幣を発行し、信用力を付けていた。
蒋介石軍は日本軍に局地戦では押されながらも、法幣による通貨戦争で日本を圧倒していた。
 経済競争はモノばかりではない。円安は日本の製造業にとって一時的には収益増の恩恵があるが、円が弱い、
つまり円の信用が失われてくるようになると、円建ての資産は外国の投資家から見向きもされなくなる。
日本の個人も人民元建ての中国企業株など外貨資産に替えるようになる。この傾向に歯止めがかからなくなれば円は没落し、
金利は一転して急上昇し、国家は膨大な借金の金利を払えなくなる。通貨価値の維持はまさしく国家安全保障なのである。(編集委員 田村秀男)

http://www.sankei.co.jp/keizai/kseisaku/070521/ksk070521000.htm

人民元の勢力拡大は日本にとって軍事的脅威そのもの

2015.08.14
 戦後70年。戦争とは何か、何も兵器を使うばかりが戦争ではない。相手国に自国通貨を浸透させると、軍事面で優位に立つ。
 写真は中国内陸部、標高1200メートル、山西省の黄土高原の一コマである。何万年もの間、風雨は黄土の大峡谷を溶かし、崩し、高原の大半を平野と崖の混在した複雑な地形にしてしまう。そんな山あいの村々には今でも「窰洞(ヤオトン)」と呼ばれる横穴式洞窟の住居が点在する。
 1942年5月6日、この黄土高原の一角の窰洞で日中戦争の帰趨(きすう)を左右しかけた会談が開かれた。
 特命を帯びて対中和平工作に奔走した陸軍中野学校出身の井崎喜代太氏の回顧録によると、日本軍の第一軍司令官、岩松義雄中将と、中国山西軍の閻錫山(えん・しゃくざん)将軍が会談。岩松中将は山西軍にラッパで迎えられ、閻将軍とにこやかに握手、和平協定が成立寸前だった。
 当時、閻将軍は重慶蒋介石国民党政府に協力していたが、旧知の岩松中将の誘いに乗って、日本軍の影響下にあった南京の汪兆銘政府と合作し、反蒋介石で連合することを約束していた。歴史に「もしも」はないが、実現すれば日本軍・汪兆銘政権連合は中国の黄河以北(華北)を取り込んで、戦況を一挙に有利に導き、蒋介石との和睦交渉の道を開いたかもしれない。対米戦争の局面も大きく変わっただろう。
 山西軍との和平条件は、資金援助である。村の入り口では、国民党政府の通貨「法幣」4000万元の札束を積んだ駄馬隊が待機。「会談成功」という合図を確認した駄馬隊の隊長が「ホウヘイ前へ」と大きな声で号令。駄馬隊が一斉に動き出し、洞窟めざして前進する。
 これをみて、閻将軍は血相を変えて裏口から逃げ出した。閻錫山の通訳が「法幣(中国語の発音ではファピー)」を「砲兵(同パオピン)」と取り違え、「砲兵(パオピン)がくるぞ」と大声で叫んだからだ。日本軍がだまし討ちしてきたと、誤解したのだ。
 「ホウヘイ前へ」事件で閻錫山取り込み工作は失敗し、日本軍は中国大陸でいよいよ泥沼にはまった。
 抱き込み工作失敗の遠因は、日本軍の軍票の信用がないために使えず、敵の法幣に頼らざるをえなかった点にある。法幣こそは英国が蒋介石政権に全面協力して発行させ、米国が印刷面で協調した。
 今、英国は中国主導で年内設立へ準備が進んでいるアジアインフラ投資銀行(AIIB)に率先して参加し、国際通貨基金IMF)の特別引き出し権(SDR)構成通貨への人民元の組み込みに賛同している。
 SDR通貨への認定は元をドル、ユーロ、円、ポンドと同列の国際通貨の座に押し上げる。すると、AIIB融資に元を使える。ロシアなどからの兵器購入も元で済む。
 元の勢力拡大は日本にとっての軍事的脅威そのものだ。日中は戦後70年を経て第2次「通貨戦争」の局面にあるだろう。歴史は繰り返すのだろうか。(産経新聞特別記者・田村秀男)

http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20150814/ecn1508141140004-n1.htm

*1:単純に産経や田村記者の誤記、典拠の「井崎喜代太氏の回顧録」中の誤記、前者記事はネット上に転載された際の改竄などの可能性がある。

*2:「対伯工作に関する岩松資料」 自昭和16年6月至昭和17年5月(【 レファレンスコード 】C11110869200、C11110869300、C11110869400、C11110869500)

*3:http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20150403/1459617201