第二十五話 太行、太岳の夏季反「掃討」作戦

第二十五話 太行、太岳の夏季反「掃討」作戦

2014-10-03 14:19:31
 1942年5月、日本軍は3万人余りの兵力で、「鉄壁合囲、捕捉奇襲」などの戦法をとり、太行、太岳の抗日本拠地に夏季の「掃討」を行った。
 5月19日、敵は2万5000余人の兵力で、八路軍本部と北方局があった太行・抗日本拠地の北部地区に対し「掃討」を行った。25日、敵はその航空兵の支援のもとで攻撃を開始した。八路軍本部と北方局機関は部隊の援護の下、3方向に分けて包囲を突破した。この緊急状況下、包囲突破作戦の陣頭指揮をする八路軍の左権副参謀長は、個人の危険を顧みず部隊を指揮し、不幸にして弾に撃たれ、十字嶺で殉死した。
 26日、敵は移動しながらせん滅する戦術に変えた。敵のせん滅を粉砕するため、我が軍は破壊作戦を積極的に展開した。31日、長治にある敵軍飛行場を奇襲し、敵機3機、車両14台、オイルタンク2基を破壊した。これと同時に、敵の後方が手薄であるのに乗じ、虒亭、五陽、黄碾など敵の拠点を襲撃し、大打撃を与えた。地方の武装勢力民兵は平漢、白晋、同蒲や正太などの鉄道沿線で破壊作戦を展開し、内線部隊の反「掃討」作戦に力強く協力した。
 6月9日、日本軍と傀儡軍は、河北省邯鄲と山西省長治を結ぶ「邯長道路」および清漳河両岸地区から南下し、太行南部地区を「掃討」した。八路軍129師団の直属隊および新編第一旅団一部は、敵に涉県南西の石城、黄花地区に追い詰められ、険悪な状況に置かれていた。129師団は夜が明かない内に、4方から包囲してきた敵軍の隙間をつき、包囲網を巧みに抜け出した。敵軍は、包囲計画失敗後、19日後に撤退した。
 太行、太岳の抗日本拠地の軍民による夏季の反「掃討」作戦は38日間続き、敵軍3000人余りをせん滅し、本拠地を守り通し強固なものにした。

http://japanese.cri.cn/782/2014/10/03/142s227419.htm