第十七話 随棗会戦

第十七話 随棗会戦

2014-09-25 14:53:45
 中国第5戦域の主力部隊を湖北省の随県・棗陽附近で消滅させるため、1939年4月末、日本軍第11軍の岡村寧次司令官は師団3つと騎兵旅団1つの計11万3000人の兵力を投入し、遠距離の急襲を仕掛けてきた。中国第5戦域の李宗仁司令長官は約22万人の兵力を集中させ、左集団軍、右集団軍、江防軍、ゲリラ部隊及び第二戦兵団を編成し、「桐柏と大洪の山間部を長期にわたって守り続け、防御の手段として攻勢に出て、敵に打撃を与える」方針に従って、防御作戦を展開した。
 会戦の初期、日本軍は飛行機や戦車の支援に頼りながら、幾度も毒ガスを利用し、中国軍の防御戦をすぐさま突破し、棗陽、随県、桐柏などを相次いで占領したものの、中国軍の主力を捕まえることができなかった。それを受け、中国の第5戦域は守備体制から攻撃へ変更することを決定し、主力部隊を第1戦域の部隊と合流させ、豫西から南下し、日本軍の大部分を襄東の平原地帯に反包囲を仕掛けると同時に、棗陽を攻撃し始めた。他の兵力は日本軍の後方を牽制していた。5月24日まで苦戦した結果、中国軍は棗陽、桐柏など各地を相次いで奪回した。日本軍は随県を占拠するのみで、残りの部隊は鐘祥、応山など元の駐屯地に撤退した。双方が基本的には戦前の情勢に回復したため、会戦は終わりを告げた。
 随棗会戦中、中国側第5戦域の部隊は柔軟な戦略戦術を講じ、わが軍の主力を包囲・殲滅しようとする日本軍の作戦計画を打ち破っただけでなく、敵軍の兵力を消耗させ、それを牽制する目的を達成した。

http://japanese.cri.cn/782/2014/09/25/141s227041.htm