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第十二話 台児庄の大勝利

1938年 山東省 徐州会戦

第十二話 台児庄の大勝利

2014-09-20 14:41:28
 日本軍は1937年12月に、南京、済南を相次いで攻略した後、天津駅と江蘇省浦口駅を結ぶ「津浦線」の全線を抑え、南北の戦場をつなげようとし、南北両端から徐州を挟み撃ちすることにし、山東南部の軍事要塞「台児庄」が日本軍にとって真っ先に手に入れようとした地になった。
 1938年3月、日本軍の板垣征四郎中将の第五師団が青島と済南を結ぶ鉄道「胶済路」に沿って西へと進み、臨沂に迫っていく。磯谷廉介第10師団が「津浦線」に沿って南下し、台児庄に直進した。中国第五戦区の李宗仁司令官は孫連仲第2集団軍等を主力とし、蒋介石に中央軍湯恩伯部隊を差し向け、台児庄地区で日本軍を待ち伏せして攻撃するよう要請した。3月23日、日本軍主力が台児庄に対し猛烈な火力で攻撃を始め、守備の中国軍は命をも顧みずにそれに応戦した。主要陣地は何度も入れ替わって両軍の制御下におかれ、すさまじい激戦が繰り広げられた。戦闘が最も厳しい時に、中国側の4分の3の陣地が敵に奪われた。しかし、中国軍は命をかけても撤退はせず、最後になり、予備隊まで全員戦死し、通信兵、担架兵が決死隊をなして必死に戦っていた。
 3月31日、中国第五戦区は優勢な兵力を集結して、台児庄及びその周辺地区の日本軍を包囲した。4月3日、中国軍による全線反撃が始まり、激戦は4日間も続いた。その結果、日本軍第10師団瀬谷支部の大部分、坂本支部の一部分、延べ1万人余りをせん滅し、軽・重機関銃1千挺、歩兵銃1万余挺、火砲、戦車数十台を手に入れた。壊滅的な打撃を受けた日本軍残部は嶧県、棗庄に向かって逃走した。台児庄の戦いが終わった後、日本軍指揮官の瀬谷少将が免職され、日本に送還された。
 台児庄の大勝利は全面抗日戦争が始まった後、正面戦場で収めた重要な勝利で、日本軍の凶暴な気勢を著しく頓挫させ、中国人の抗日精神を奮い立たせ、抗日戦争必勝の信念を強めた。
 1.1938年3月18日、第22集団軍総司令官孫震らが滕県の死守について蒋介石に宛てた電報(中国第二歴史公文書館提供)

http://japanese.cri.cn/782/2014/09/20/181s226844.htm